アイデアの引き出し

今日、グラウンドでラグビースクールのコーチが、昔ながらの楽しくなさそうな練習をしているのを見たので、近くに寄ってすこし話をした。

何を学ばせたいか考えて、学ばせたい内容を要素に分析して分割して、出てきた要素をメニューに組み立てる、といういつもの話なのだが、これは何度も繰り返さないとならないことなので、特に問題はない。
何度も何度も繰り返して、その中で見えてくるものがあるのだから、別によいのだが、一番最後の「出てきた要素をメニューに組み立てる」際の「アイデア」について少し考えてしまった。

「講師の教科書」の中でも、課題を作るのに「アイデア」という言葉を使った。

要素まで分解できれば、それを課題の形にするのはアイデアなのは、ラグビーも講習も同じである。

やってることも、考え方も同じで、ラグビーの練習でも、講習の課題でも、私の場合は自然とアイデアが浮かんでくる。

でも、それが浮かばない人もいる。

今日、グラウンドで話したときに、そのコーチが「やっぱり引き出しが大切なんですね」と言った。

しかし、そこで例にして見せたのはこれまでやったことがあるものではないし、私の持っているメニューの引き出しにそのまま入っているものではなかった。
だから「引き出し」という言葉が引っかかったのだと思う。

手持ちのメニューをたくさん引き出しにしまい、それを場に応じて引き出す、というのがたぶんそのコーチの頭の中に浮かんだ絵なのだろう。
だが、少し違う。

私が引き出しにしまってるのは、メニューを構成する要素ではないかと思う。

人間の心理、人間の身体構造、既存のメニューをばらして要素にしたもの、既存のメニューの中からいくつか見つけた本質、過去の経験、そんなものが引き出しに入っている感じがする。
その引き出しからいろんな要素を引っ張り出して、学ばせたい要素を含んだ課題として組み立てている感じがする。

もちろん、最初は引き出しにしまうのは既存のメニューでよいと思う。
出発点としては悪くない。

だが、そのまま引き出しにしまうのではなくて、しまう前に一度、自分で使えるように整理しなければ、本当に使える引き出しにはならないのかもしれない。
もちろん、たまには棚卸しも必要だろう。

引き出しが大事なのは間違いない。
だが、大切なのは引き出しの量もそうだが、その質の方ではないか。
そして、質の良い引き出しを持つためには、考えながらしまう、という努力が欠かせない。
それができるかどうかで、コーチの力が決まってくるのではないか。

今日はグラウンドでそんなことを考えた。

講師講習でもアイデアを出してもらうのは難しいことである。
「講師の教科書」でもその辺りは、詳しく書けていない。

だが、その突破口が少し見つかった気がした。

すでに、頭の中で課題化しつつある。
要素に分けて、学ばせたいことがわかれば、引き出しから引っ張り出した課題の要素を組み合わせて課題にする。
課題にできれば、インストラクションを考えてシミュレーションをして、修正をする。

いつもと同じ事である。

本質のなんと単純ですばらしいことか。

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