指導と体罰の違い?

先日、子どもの育成に関するグループの指導者講習会の講師をさせていただいた。

その講習は「教えないで教える」をテーマに「使ってはいけない言葉」「使いたい言葉」という話をさせていただいたのだが、終了時にアンケートをお願いしてご記入いただいた。

その中の一枚に、研修を希望するテーマとして「指導と体罰の違い」というのがあった。

最近、体罰の問題がクローズアップされており、タイムリーな話題であるので、少し触れてみたい。

まず「指導」についてだが、これはそれほど難しくはない。

与えるべきスキルを指導者が想定し、子どもにそれを身につけさせて、場合によっては想定を越える結果を引き出せば良いのだ。
具体的な手法としては、一般的なスキルコーチングの基本的な手法である、観察、分析、メニュー化、実施、のサイクルを根気よく繰り返しつつ、適切な言葉をかけることだろう。
そしてできるまで待って、できれば、きちんと認めてあげることである。

ここで、大切な事は、子どもを伸ばしたい、成長させたい、という気持ちが根本であることと、できるようになるまで待つことである。
あくまで子どもが主役であり、指導者はそのサポート役でなければならない。

これが基本的な「指導」の考え方である。

次に「体罰」であるが、なぜ「体罰」がなぜ起きるのだろうか。

よくインタビューなどでもあるが「つい、かっとして」という表現がよく使われる。
「何度言ってもできないので・・」というのが付いてくる場合もある。

気が付かれたであろうか。

これらの言葉からは「指導者の感情」しか見えてこない。

「こんなに教えてやってるのに、なぜできないんだ!」
「言われたとおりにやってみろ!」

すべて、指導者の感情から出ている言葉である。
ここでの主役は指導者で、指導されているはずの子どもは、指導者の道具になってしまっている。

子どもの成長と感情を第一に考えない指導者は、もはや指導する人間ではない。

「厳しくしなければ、言うこと聞くわけない」
「厳しくしなければ、厳しい練習に取り組んでくれない」

悲しい言葉である。

指導者自らが「子どもに信頼されていません」と言っているのだから。

子どもが一生懸命やらない。

それはその指導者が信用されてないからだ。
子どもに「やりたい気持ち」を持たせてやれないからだ。

だから、恐怖で支配して、自分の思い通りに動かそうとする。

こんなのは逆立ちして100歩下がっても、指導ではあり得ない。

大人が勝ちたいために子どもを道具に使っている例が、世の中には沢山ある。
私も沢山見てきた。
周りの大人から評価されるためには、大会を結果を出さないといけない。
そのためには体罰を使ってでも子どもに練習させて勝とうとする。

不幸なのは子どもである。

最初の問いは「指導と体罰の違い」であったが、答えは簡単である。

「指導」は子どものため。

「体罰」は自称指導者のエゴのため。

両者を並べて論ずること自体が間違っているだろう。
「体罰」は指導ではないのだ。

「子どもが主役であること」これが指導の最低条件である。

指導に関して、叩くことが許されるシーンはない。

指導のためと理由をつけても手を出したら、それは間違いなく体罰という名の暴力であることを忘れてはいけない。
言葉で傷つけることが、叩く以上にひどい暴力になることも、同じく忘れてはいけないことである。

7件のコメント

  1. いつも参考にさせていただいてますが、今回はツッコミを入れてみたくなりました。

    > 叩くことが許されるシーンがあるとしたら…信頼されている指導者が

    体罰容認論のほとんど全てが「信頼関係」を条件にあげ、体罰する側も「自分は信頼されている(と思っている・いた)」と言い訳します。辞任した女子柔道の監督は「一方的な信頼関係だったと深く反省している」と発言しました。

    「信頼されている」という条件は、いつまでも体罰を容認し続け、体罰の隠れ蓑であり続けるのではないか、と思ってしまいます。この際、信頼という条件も撤廃すべきではないでしょうか。

    或いは、指導者本人だけでなく第三者が見た場合にも、「信頼されているかどうか」を客観的に判定する方法があるのでしょうか。

    > 怒りではなく冷静に「悲しみ」を伝えるためのものだけだ

    悲しみを伝えるために叩く、ですか。ここにも疑問を持ちます。

    要は悲しみを伝えられれば良いのですから、それなら他の手段もあるのではないか、と思うのです。他の手段があるなら(私はあるだろうと思っている)、叩く必要性はなく、正当性もない、ということになりそうです。

    或いは、叩くことで得られる指導効果を、どう評価するか・根拠付けるか、という問題かもしれません。

    1. コメントありがとうございます。
      実は、初コメントでとてもうれしいです(^^

      さて、本題ですが、基本的に体罰はあってはいけないものだというのは大大大前提です。
      新井田さんが指摘されているように、勝手に「信頼されている」と思い込むのは論外ですし、他の方法がある、というのもおっしゃるとおりです。

      信頼されているかどうかも分からないのは、そもそも自分のことしか見えていないことになりますから、もし本当であれば、その時点で指導者の資格はないと思います。
      体罰以前に、そういう指導者を現場においてはいけないと思います。

      私自身はスポーツ指導を始めてから「自分の子ども以外は(これは私の黒歴史です。コーチングが難しいのは身近な人間です。感情のコントロールが難しいからです。)」手を上げたことはありません。

      先輩指導者の方に話をうかがったときも、30数年の歴史の中で一度だけ、子ども達が集団で「ずるいこと」をしたときに、という話でした。
      ラグビーという競技は文化的に「ずるいことをする」のを非常に嫌います。
      それを常々伝えていたのに、というのがおそらく「悲しみ」の原因だったのだと想います。

      ですが、私自信は現時点で「体罰」「言葉の暴力」でなければできない指導などないと考えています。

      逆にきちんと指導することを考えた際には「選手を傷つけること」が何かの役に立つとはとうてい思えませんし、コーチングをベースにした指導法を知れば、できなくなるはずです。

      ですから、このブログは、体罰も条件がそろえば容認、というようなつもりで書いたものでは、まったくありません。

      先の指導者は、言葉にできない悲しみを表現するのに他の方法を思いつかなかった、というのが本当のところではないかと思います。
      叩かれた方の子ども(もう大人ですが)に話を聞いたところ、それが伝わった、と言っていました。
      そういうことを前提に、先のブログのような記事を書かせていただきました。

      落ち着いて考えれば、伝えていたと思っていたのに、伝わっていなかった、という指導者側の思い込みもあります。
      泣きながらでも、きちんと言葉で伝えることができれば良かったんだろうな、とも思います。

      指導者の重要な要素に「感情のコントロール」があります。
      常々、難しい事だな、と思いつつ取り組んでいますが、その難しさを知ってる一人として、このようなシーンは、私にとってもとても理解できるものなのです。
      だから、そういう意味で「かろうじて」あっても理解できる、という意味で書かせてもらいました。

      とはいえ、体罰や言葉の暴力を容認する理由は、全くありません。
      体罰、というのは指導者の未熟からおこるものです。

      コメントをいただき、「条件付きなら体罰があっても理解できる」と言っている私自身が、まだまだ指導者として未熟なのだろうと思いました。

      修行の道はまだまだ長いです(^^;

      1. レス、素早いですねw

        おっしゃりたい事は理解できました。叩かれた方にも話を聞いていたという事に、いささか驚きました。その上で「体罰や言葉の暴力を容認する理由は、全くありません」と言い切っていただけて、私は勇気百倍です。ありがとうございます。

        私は体罰などしないし言葉の暴力とも無縁な人間だ・・・なんて言いたいのではなく、それどころか、先日某所で自分の恥ずかしい所業を明かすハメになってしまったような人間です(いずれ誰かから長谷川さんにも伝わるのではないかと苦笑)。だからこそ、厳しめのスタンスが必要な問題だと思っています。

  2. 子供の高校の体罰問題で高校との話し合いの時に
    「指導と体罰の違い?」が非常にわかりやすかったので
    勝手に引用させていただきました。
    すみません。

  3. 体罰・暴行を繰り返す多くの先生様は「これは体罰ではない、指導だ。」などとおっしゃり、指導だから有形力の行使は許されると今も主張されています。昔から先生様たちは「殴る先生の手のほうがずっと痛いんだ。」と言われ、もっとも逆らいようのない、大人しい、愚図な、腹立たしく感じる児童生徒を殴り続けてらっしゃいます。
    私は行政職員として、そのような話をお聞きして実態の聞き取りをしようとすると、上記の様な主張を繰り返され、しかし調査には決して協力しません。それどころか全力を挙げた隠ぺい工作を展開するのが学校というものです。児童生徒が大怪我をしていても、家族が訴えようとする事にすら、あからさまに妨害します。そして教育行政は上からの圧力に弱く、教育を語る方が頻繁に用いる「俺は目上だ。俺に逆らうのか!」で事実は闇から闇です。
    教育者と自称される方の語られる有形力の行使を利用した教育のお話は、社会にとって百害あって一利無いと私には感じられてなりません。

  4. 秋の愁い様。
    コメントありがとうございます。

    体罰・暴行はあってはならないものだと思います。
    行政の現場からの声をうかがい、あらためて学校教育を初めとする教育の現場での教育のあり方を考えていかなければならないと思いました。

    私が主として携わっているのは、新人研修などの企業研修ですが、ここ数年、その新人研修に赴く講師の方の教育にあたっています。

    そこでは「徹底的に受講者のために」「受講者が主役であり、講師はその支援をする」ということを伝えています。
    実際に手を出さなくても、不用意な言葉も時には体罰や暴行以上の暴力になることも伝えています。
    講師が自分自身の感情のコントロールをしなくてはならないこと、そもそも体罰のような恐怖による支配では成長を期待できないことも大切なこととして伝えています。

    私の元のブログでも、体罰を条件さえそろえば一部容認というような書き方をしてしまっていますが、大変申し訳のないことをしました。
    例としてあげたのは、私の先輩の経験談であり、ものすごく昔のことで、今は同じような状況であっても手を上げることはないでしょう。

    いただいたコメントから秋の愁い様の怒りが伝わり、教育関係者として申し訳ない気持ちでいっぱいです。

    ブログの中から該当部分を削り、今後この文章を読む方が誤解をされないよう修正をさせていただきます。

    コメント、ありがとうございました。

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