自由でいること、自在であること

「守破離(しゅ・は・り)」という言葉がある。

先日書いて、Facebook の「未来教育、育成チーム」に載せた「教育大転換時代」というPDFファイルがあるのだが、その中に次のような一説がある。

「江戸から明治の初期、教科書が一人に一冊なかった頃は、先生が教科書を黒板に書いて、それを写して家で勉強していた。
全員に教科書が行き渡っていれば、おそらく違う形の学習がなされたことだろうが、残念ながらそうではなかった。

だから、勉強するといえば、まずは教科書を写すところから始まったのだ。
先生が書いた板書をノートに取る、という行動のルーツがここである。」

「なぜ授業でノートを取るのか?」という質問への回答である。
最初に書いた「守・破・離」の「守」は教えられた伝統などをきちんとできるようになること、なのだと思うが、それでも前提条件が違う場合にも守り続けることは「旧弊(きゅうへい:古いしきたりから生じる弊害)」でしかなかろう。
守るべきは本質であり、形ではない。
形だけを守り続けると、いつしか旧弊になる。
ここでいう本質は「教科書を写してでも学びたい心」であるのではないかと思うが、もしそうだとすれば、今の教育は「守」さえできていない、ということになる。
学びたい心を持たせることが教育として守らなければならない伝統であるとしよう。
これができて初めて「守」ができることになる。
ならば「破」はどうなるか。

「その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。(wikipedia)」

ということなので、ノートを取る以外の学習の型を見つけたり、作ったりすることになるのではないだろうか。
「より良い」を目指すために、今やっていることに疑問を持ち、新しい挑戦をすること。
これが「破」になる。

「離」はどうだろうか。

「最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。(wikipedia)」

決まった型を持たずに、新しいものを自由に作れるようになること、自在になることが「離」ということだろう。

ここで、守らなければならない本質に立ち返る、というのが前提になる。
本質は「学びたい心」だ。
「学びたい心」を学習の起点とすることが本質である。

「学びたい心」を育て、実を結ばせるために、さまざまな方法を自由に考えて実践できることが「離」につながるのだろうと思っている。
「守」「破」ときて「離」になるためには、自由で自在であること、というのが必要だ。
まとめると、教育の世界で「離」に到達するためには次のようなことになりそうである。
「学びたい心を大切にし、それを育むための限定されない効果的な方法を、自在に提供できること」
「離」に達するためには縛られない「自由」が必要だ。
固定観念や、常識に縛られていては「破」もあやしいし「守」さえできないかもしれない。
本質を忘れずに自由に。
これは「奇」ではない。
一芸を極めた人達が、たまに「へん」なことをする。
「へん」な人とのコラボだったり、「へん」な行動だったりだ。

最近、これは「自由」なんだろうと思うようになった。
破り、離れるために必要な自由なのだろう、と。

「奇」と「自由」の違いは「本質をおさえているか否か」である。
奇をてらわず自由に行動し、自在になれること。
人から「奇」と思われても、本質を外していなければ「離」のために必要な自由であると信じること。

そんなことを意識しつつ、これから先の教育を考えていきたい。

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