リスク管理の一般論

世の中にはさまざまなリスクがある。

例えば道を歩いているだけでも、段差に躓いて転んだり、自転車にはねられたりするリスクがある。
ひょっとしたらどこかのアニメのように、上から植木鉢が振ってくるかもしれない。

ビジネスの現場でもリスクに対する対応は重要なことであり、およそ全てのことにリスクというのはついて回る。

リスクには何らかの対処が必要であるが、それには次の4種類の対応方法があるとされている。

回避、低減、移転、受容の4つである。

回避というのはリスクそのものを避けることである。
道を歩いている例であれば、道を歩かない、という選択をすることになるだろう。
その場合、歩いていた目的である買い物ができなくなったりはするが、道を歩くことによるリスクは回避できる。

低減というのはリスクの発生する可能性や影響を低くすることである。
身体を鍛えて転んだりするリスクを回避したり、安全確認を慎重に行う手順を守ったり、ヘルメットをかぶったり、などということになる。

移転というのはリスクを外部に任せてしまう方法である。
例えば、買い物に行く代わりに通販ですませてしまえば、運送業者は道を通行するこのによるリスクを負うが、自分にはそのリスクはなくなる。
その代わり、運送費という形でリスクを肩代わりしてもらうことになる。

受容というのはそのまま受け入れる、ということである。
転んだらしかたがない、そうそう転ぶことはないだろうし、怪我をしてもすりむくぐらいだろう。
植木鉢が降ってくることは滅多にないから、おきてしまったらあきらめよう、である。

今の時代、ある程度の組織であれば、このようなリスクに対する対応というのはきちんと考えているのが当たり前であり、リスクが大きければ大きいほど、影響度などを考えて適切な対応をする必要があるというのが、常識である。

そして、リスクの対応には、そのリスクの評価が欠かせない。
リスクの影響自体がなければ対応の必要がないし、影響が大きければそれだけしっかりリスクの対処が必要になるからだ。

このような話は、以前に内部統制にかかわった際に徹底されていたのだが、なぜこんな話を改めてしているかというと、原発の事故に際してこのようなリスクのマネジメントが有効に行われていないと感じられたからである。

震災時の福島第1原発の事故でも証明されたように、原発の事故のリスクは甚大な影響を与える可能性がある。

何万人もの生活を破壊し、広大な面積の土地に人が住めなくなり、巨大な企業がつぶれ、経済にも何兆円もの損失を与え、将来にどのような影響が出るかもはっきりしないなどということが、甚大な影響でないわけはない。

このようなリスクについては、とうてい「受容」という選択肢はないだろう。
他のことがいくらよくても、起きたら仕方がないよね、では済ませられない。

移転も不可能である。
こんな事態を移転させられるところはどこにもない。

低減の方法は多い。
安全基準を徹底して(真摯に)実行することもそうであろうし、作業員の練度を上げる訓練もよいだろう。
監視の目を多くすることも有効かもしれない。

それでも、あくまでも低減であって、事故が起きて甚大な影響を与えるリスクは残る。

少なくともこのような事故において「想定外」なんていう言葉を免罪符のように使っている組織では、どこまで低減できたか、などという話をするだけばかばかしいレベルであるので、大きく体質が変わらない限り、低減の方法ではかなり大きなリスクが残ると考えてもよいだろう。

では、回避はどうだろうか。
これは簡単である。

原発をやめるだけである。

廃炉の問題、放射性廃棄物の問題は残るが、少なくとも冷却できなくなった放射性燃料が爆発したりする事態は回避できるだろうし、甚大な影響を与えるようなこともなくなるだろう。

このように考えていくと、事故のリスクをなくすためには回避という対処しかないように、私には思える。

だが、実際には「低減」という対処方法が選ばれている。
関係する人にとっての目先の大きな利益があるからだろうが、これでは残念ながら、将来にわたって同じような事故がおきない、と誰も断言することはできないし、おそらく、また起きるであろう。

なぜこんなことになっているのだろうか。

たぶん、答は簡単である。

最初のリスクの影響評価が冗談みたいなものだからだ。
そして、原発問題を考える前提に「組織の財務状況からも動かさなければいけない」という、リスクとは関係ないものがはいっているからだ。

原発には「安全神話」という言葉があった。
安全だから緊急処置の訓練も、緊急設備の動作確認も必要ない。
逆に、安全神話を守るために、そんなことはしてはいけない、というような話にもならない状況にあった。
安全なのだから、リスクの評価自体が不要であり、低減の対策も必要ない、と。

あえてリスクから目を背けるような体質の組織のリスク管理がまともであるはずはない。

これだけのリスクがある。
それに対してこのような備えがある。

このようなリスクが考えられる。
こういう試験を行って安全であることが確認できた。

そういうことを積み上げていって、初めて低減の効果があるはずだが、報道を見る限りは「そんなリスクはない」と言っていることのほうが多い。

例えば、「活断層ではない」と主張することよりも「活断層であっても大丈夫な仕組みがある」というのが正しい姿勢であろう。
活断層とされていない断層が動くリスクだってあるし、影響の甚大さを考えたら「活断層ではないから」などはなんの根拠にもならないだろう。

「重要な構造物は地震では壊れない」と主張するなら、実証実験をするなりして確認しなければならない。
設計時に想定されていない揺れが何度も観測されている中で、壊れない証明や検証は不可欠ではないだろうか。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と根拠もなく繰り返しているだけでは、相変わらずリスクの評価もできていないし、対処もできてないと考えざるを得ない。

運が悪ければ日本の居住可能な領域が半分になる、もしくはなくなるかもしれない、というような甚大なリスクに対する評価と対処がこのレベルであることに、私は半分あきらめにも似た気持ちを持っている。

政治家と官僚と経済界で原発の再開の動きが強くあるが、目先の利益ではなくちゃんとしたリスク管理の観点から考えてみてはどうかと、切に思う。

コメントを残す