心は形を求め、形は心を求める。

ラグビーの大先輩コーチに聞いた言葉である。

心、というのは「やっていること」と言い換えれば分かりやすいかもしれない。
形、というのは肩書きや表彰などをさす。

そうすると「心は形を求める」というのは、次のようなことだろう。

それぞれの分野で努力して、いろんな事ができるようになったとする。
そうすると、例えばコーチであれば「指導部長」だったりとか、チームのヘッドコーチだったりという肩書きが欲しくなるようなことをさす。
これはある程度理解できるのではないだろうか。

それでは「形は心を求める」とはなんだろうか。

できないのに「講師」をさせられる。
初めて講師をするきっかけが、会社からの業務命令だった、講師なんてやりたくないのに、現場で「先生」と呼ばれてしまう。
こんなのが与えられた「形」であろう。

それでは形に求められる心とは?

先生、と呼ばれ、頼られたりしているうちに、きちんと先生になりたいと思い、なろうとする。
その結果、だんだん先生と呼ばれるのにふさわしくなっていく。
これが、形に求められた心なのであろう。

私はカリスマ講師と呼ばれるたこともないし、表彰も受けたことはない。
だから、私には外から与えられた「形」はない。
だが、そこそこの経験のおかげで、不足している部分はもちろんあるが、少しずつ「心」はできていると思っている。

では、私もこれから「形」を欲しがるようになるのだろうか?

もちろん、仕事として評価され、それなりに稼げるようになりたい、とは思う。
残念ながらボランティアでは飯を食えないので、これは仕方ないだろう。
もちろんテレビなどで取り上げられることがあれば、仕事も増えるだろうからうれしい、というのはあるが、それは形をありがたがるのとは違う。

私の場合、講師という仕事をしていて、もっともうれしいものは「受講生からの良い評価」である。
「カリスマ講師」という肩書きよりも、何倍もうれしいものであり、よりよい講師になろうというモチベーションにつながる。

講師という職業の肩書きはあまりないこともあるのだが、私は形を求めなくてもすむのじゃないか、と思っている。

だが、形が心を求めるものであれば、私は自分自身を「良い講師」という形にしておきたい。
そうすれば、その形によい心が付いてくることだろう。

いつまでも「良い講師」でいよう。
そして「より良い講師」になろう。

そういう形を自分だとしていることで、きっとよい心がついてくるに違いないのだから。

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