私の行っている研修では、研修が多くのワークショップにより進んでいく。
本来であれば、1時間、2時間というワークショップを入れたいところだが、時間の関係でそれができないときでも、いろいろな工夫をして、10分、15分のワークショップを入れたりして進行する。
ワークショップをし、できれば発表をし、コメントをし、またワークショップ、という流れが理想であり、基本的にそのように進めている。
だが、これは「恐い」進め方である。
なぜかと言えば、ワークショップの結果、話し合った内容が、私の意図しているものと違う可能性が常にあるからだ。
複数のグループの発表があってその中に、期待したものが入っていればよいが、そうでない場合、こちらで伝えたいものと出てきたものが違うと、どうやってつなげて進めようか、必死に考えることになる。
近ければまだつなげられるが、180度ぐらい違うものばかりだと救えない場合も出てくるだろう。
進行の予想はするけれど、それが裏切られることがあるのだ。
まずは、そういう意味で「恐い」。
また、私の想定していた答えよりも素晴らしい答えが出てくることもある。
良い意味でも予想を裏切られることがあるのだ。
その時には、用意していた次のワークショップが陳腐なものに見えてしまったり、内容的に薄く感じてしまったりして、飛ばしたり、違う課題を急遽作ったりする。
このときも必死だ。
対話やワークショップなどを用いた参加型の研修をちゃんと進めるためには、これらの「恐い」「予想外」ときちんと向き合う必要がある。
たまに私も受講生として研修に参加することがあるが、ワークショップ形式で、対話型で、という研修でも、例えばワークショップの結果が尊重されない場合も少なくない。
結果を発表しても、それに対するおざなりなコメントだけで、お仕着せの説明や、まったく関係のないワークショップが始まったりする。
これなどは、本来のワークショップによる参加型学習の効果を大きく損なっていると考えてよいだろう。
良い意味で予想を裏切られることは、私にとっては大きな喜びにつながる。
「人間はすごい」と思えることは私の仕事の大きなモチベーションになっているからだ。
これまで何度も、そのような喜びと大変さを味あわせてもらってきた。
予想外を楽しみ、対応ができるように準備をし、びくびくしながら現場で必死に考えているのが、講師の私の姿なのだ。
だから 「けんしゅうこわい」 なのである。
まんじゅうこわい、という落語の演目がある。
「恐いものはまんじゅう」と言った男が、友人たちからまんじゅう責めにされて「うますぎてこわい」と言いながら全部平らげてしまった。というような話である。
私にとっての「けんしゅうこわい」も同じようなものだろう。
違うのは友人たちが「ほれこわいか、ほれこわいか」と言って、研修責めにしてくれないことぐらいだ。(してくれたらうれしいのだが)
落語での「落ち」は、ひっかけられた友人たちに、男が「本当に恐いものはなんだ?」ときかれて「濃いお茶が一番恐い」と言うものだ。
さて、私の「落ち」はなんだろうか。
残念ながら、私はまだまだ満腹になるほど研修をしていない。
これから先、満腹になるかどうかも分からない。
そして、きっと満腹にはならないだろうという予感もする。
だから、私の話には「落ち」がない。
「落ち」がないまま、ずっと「けんしゅうこわい」と言い続けていたい。