原子力発電所の運転再開についての考察

研修講師として政治的な意見をあまり公にするのは望ましくない、と考えている。

技術研修、ヒューマンスキル研修のいずれであっても、企業などをクライアントとしている場合に、講師個人の政治的な意見を受講生に伝えることは、一般的にタブーであろう。

だから、原子力発電をどうするか、という事についても政治の世界の話であれば、公に意見を言うことは望ましくない。

なので、今回の選挙の一つの目玉(?)の原子力発電に関して、技術者として考察をしてみたい。

***** 安全とは *****

まず「安全」の定義である。

基本的に「100%の安全」というのは存在しない。

「安全神話」が生きていた原発であっても、内部的にはトラブルが発生し、事故が起きていた。
それが「受け入れ可能なリスクの範囲の事故」であったから、「安全である」と言われていたに過ぎない。

つまり「安全」かどうかは「リスクが受け入れ可能かどうか」により定義される。

東日本大震災における福島第一原発の事故が「安全でない」という判断となったのは、放射性物質を大量に放出し、広い範囲に被害を及ぼしたことが、受け入れ可能なリスクとは考えられないから、ということになる。
もしも、爆発が起きていても放射性物質の拡散がなければ、話は違っていたことだろう。

今回の事故では、放射性物質の拡散により、多くの農作物が出荷できなくなり、漁業にも多大な影響があり、多くの人が住む土地を追われた。
これらの事柄が、受け入れられないリスクとなるため、原発は安全でない、ということになったのである。

それでは、これらのリスクを取り除くことができれば、原発は「安全」なのだろうか。

原発には何重もの「安全機構」が組み込まれていることはよく知られている。
そしてそれが、かつての「安全神話」を支えていたことも、多くの人が知っていることだろう。

だが、それらの「安全機構」が動作するためにはいくつもの「前提」がある。

正しい設計
全てを理解した上で十分なコストをかけて設計を行えるか

正しい施工
設計通りに間違いなく、漏れなく、必要なコストをかけて施工されているか

正しい運用
全ての起こりうる事象を事前に想定し、それに対応するためのマニュアルが整備され、
運用者が習熟しているか
正しいメンテナンス
経年劣化などによる問題を、適切な検査及び予備的補修などにより回避できるか

予想外の外乱がない
想定以上の津波がこない、地震がない、活断層以外は動かない、電力は途切れない、
テロなどは起きない、などなど

人間が常に正しい判断をする
経済的、政治的な圧力に惑わされずに、極限状況において、また日常的な活動に
おいて、常に技術的に正しい判断ができるか

これらの前提が全て成立するのであれば、安全機構は有効に機能すると思われる。

だが、実際には、予想外の外乱として、地震および津波があり、設計においても地震動に耐えられていないという評価もあり、施工についても他の原発の事故などを見ると怪しいと思われるし、稼働後の原子炉の内部には手を触れられないのでメンテナンスもあやしい。

さらに、主として経済的な面から必要な事前の安全対策がとられないなど、人間の判断に関する問題も大きいと言わざるを得ない。

つまり、安全神話など、最初から絵に描いた餅だったのである。

***** 事故発生頻度 *****

このように考えてくると、原発というのは「事故が発生するもの」と考えるべきである、という結論になる。

日本で原子力発電所が稼働してから40年あまりとなる。
その40年の中で、一度の致命的な事故が発生しているので、原発の総数が変わらずに運転が続けられたとして、単純に、40年に1度の致命的な事故が起きる、とおおざっぱに仮定してみる。
実際には、設備の老朽化もあり、事故の確率はさらに上がるのではないかと思われる。

また、今回飛散した放射性物質の中で、セシウム137が問題になっている。
セシウム137の半減期は30年程度であるが、半減するだけでなくなるわけではない。2分の1になるのに30年、最初の4分の1になるのにさらに30年がかかるのである。
つまり、40年ぐらいは普通に影響が残ると考えてもよいだろう。
(除染作業をしても、セシウム137がなくなるわけではない。移動するだけである)

あわせて考えると、これからの日本では、どこかで常に放射性物質による汚染が存在し続ける、という結論になる。
問題は「どこでそれが起きるか」ということになるのだろう。

つまり、このまま原子力発電所の運転を続ければ、未来にわたり、どこかで放射能汚染が存在し続ける可能性があるのだ。

***** 経済的損失 *****

それでは、今回の致命的な事故により発生した経済的な損失について考えてみよう。

まず、放射性物質による汚染で避難区域になった土地の面積であるが、1000平方キロメートルを超えるそうである。
東京23区の面積が621平方キロメートルなので、それよりも広い面積が「使えない土地」になってしまっている。
また、避難区域よりも広い面積で農作物などの出荷ができなくなり、漁業に対する影響も甚大である。
故郷を追われ、家や仕事を失った人たちへの補償や、今後発生する可能性のある医学的な問題に関する費用などを含めて考えたら、100兆円規模の損失である、との試算もある。

日本の一般会計(80兆円程度)を超える損失が、ひとつの原子力発電所の致命的な事故により発生することになる。
試算によっては特別会計(200兆円程度)の金額を越えるとしているものもある。

こうなると、どう考えても「受け入れられるリスク」ではあり得ないと考えざるをえない。

「原発は安い」というのもよく聞く話であるが、40年に一度、国の国家予算を超える損害を出し、廃炉にするには、まったく問題がなくても一基あたり1000億円程度かかると言われるが、それには放射性廃棄物の処分費用は含まれておらず、一旦事故が起きれば1兆円を越える廃炉費用が必要となる、原子力発電所が安いわけはないだろう。

***** 結論 *****

このように考えてくると、このまま原子力発電所の運転を再開し、膨大なリスクを抱えた原子力発電所の運転を続ける事は、技術に対する冒涜にさえ思える。
リスクを考えると、将来に禍根を残さないためにも「即時全廃」が必然ではないだろうか。

選挙において「国が安全を確認した原発は運転再開」と言っている政党があるが、前述した各種の前提をどのように担保するのだろうか。
「国が確認する安全」とはどう考えても「原発は絶対に安全である」と言ってきた、「安全神話」と同じものにしか聞こえない。
前提を考えたら大嘘なのである。

原子力発電所の運転を続けなければ、すぐに廃炉費用を含めた多くの負担が明らかになり、電力会社は債務超過に陥り、原子力政策を推進してきた政治の責任を問われることになるだろう。
だが、それが原子力発電所の運転を続ける理由であれば、本末転倒も甚だしい。

安全と経済を考えた際に、経済を優先する社会は、やはりゆがんでいると思う。

人の幸せに寄与することを目的とする技術者として、私は安全神話を正当化する言葉を持てない。

選挙において、国の「安全神話」を信じ、住む場所を追われた避難民の前で、どうやって「国が安全を確認する」と説明するのだろうか。

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