常識と戦う

私が所属しているのは、埼玉県三郷市で活動しているふくじゅ草ラグビースクールである。

その練習風景は、きっと他の種目をご存じの方から見れば、非常に「ゆるい」。
開始の挨拶があるわけでもなく、練習中の笑い声もあり、練習の締めもぐだぐだである。

実際にそれを見た保護者の方から「もっときちんとしてはどうか?」というご意見をいただくこともある。
スポーツを教えるスクールなのであるから、礼やけじめなどをしっかり教えたほうがいいのではないか、という意見である。

他の種目のスクールや、埼玉以外のラグビースクールなどでは、開始前にコーチの前に整列し「よろしくお願いします!」とやるところが多いのも知っている。

だが、コーチングの基本に立ち返れば、コーチというのはあくまでも選手と共に歩むものであり、コーチは権威ではないのである。

もちろん、子供の教育に際して「あいさつ」や「けじめ」が必要なのは間違いがない。
だが、それを権威を使って「挨拶しなさい」「きちんとしなさい」などとやるのは少し違うのではないかと思うのである。

あいさつはなんのためにするのだろうか?
あいさつはなぜするのだろうか?

なぜけじめをつけたほうがいいのだろうか?

これらの問いに答えるときに、
「それが常識だから」
「それが当たり前だから」
という答えになるのだったら、一度立ち止まって考えてみてもらいたい。

その常識は正しいのですか?
なぜ当たり前なのですか?

疑問は変化の種となる。
そして、変化があれば、常識もまた変わっていくのである。

日本のスポーツ指導は体育に影響され、その体育は昔の軍隊の養成に根があったりする。
その中で培われてきた「常識」を現在の子供の育成にそのまま当てはめてもよいのだろうか?

知れば知るほど疑問がわき、疑問について考える事で変化が現れ、さらに疑問が増える。

そのようにいろんな疑問について考え続けることで、あるときにすべての答えがつながり、全体がクリアになるという経験を私はしてきた。
もっとも、すぐに次の疑問がわいてくるのだが。

最初に自分の持っている常識に疑問を持つことができれば、多くの疑問について考えるときに自由度が増える。
そうすれば見えてくるものも増えるのではないだろうかと思う。

なぜ、こうなっているのだろうか?
なぜ、こうしているのだろうか?
なぜ・・・・・?

疑問がある方は、自分が正しいのだと思っていることについても疑問を持ち、一度常識と戦ってみてもらいたい。
きっと違う世界への窓がそこにあるだろう。

もちろん、私が持っている「これが正しい」というのも間違っているかもしれない。
だから私自身も、試し、検証し考える事を、ずっと続けていかなければならない。
自分で考えて作った常識さえも戦う対象にすることが、よりよい変化につながるはずであるし、なにより変化が起きなければそれは退化と同じことなのだから。

本稿では最初の疑問についての答えが書かれていない。
なぜ、ふくじゅ草の練習は「ゆるい」のだろうか。

ぜひ、考えてみてもらいたい。

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