価値は誰のもの?

先日、FaceBookでシェアさせていただいたのだが、一流のバイオリニストが駅で素性を明かさず演奏したらどうなるのか、という実験があったそうである。

結果として、3歳の子どもがもっとも興味を示し、それ以外のラッシュ時の客はほとんど立ち止まりもしなかったようである。

その演奏は、音楽としては間違いなく価値があるだろう。
同じ奏者のコンサートのチケットは、一枚1万円もするが、すぐに売り切れるのだから。

この実験は、恐いほど「多くの人が価値を自分で判断していない」という事実を突きつけているように思える。

私も考えてみたら同じようなことをしていることに気付いた。

パソコンを選ぶときなどにも、ものを実際に見ることもするが、ブランドの影響力も大きい。
最初からメーカーによって選別していることもある。

また、有名なレビュアーのレビューも参考にする。
それもまた自分の評価ではない。

このように、私も、ものの価値を判断するときに人の判断や基準を、頼りにしている。
これは音楽や文学、その他の形のないものについて同じである。

他人の価値観をそのまま受け入れるだけでは、いつまでたっても、自分の価値観を確立できないのではないか、と思うが、どこからどこまでが他人の価値観で、どこからが自分の価値観なのか、判断が難しい場合もあるだろう。

全てを自分の価値観で判断することは、なかなか難しいことなのだろう。
例えば、先の実験で、「一流の」と書いたが、これも「一流だからよい演奏のはずだ」というように思ってしまった。
しかし、本当にそうであるかどうかは分からない。
実際に演奏を聴いたわけではないのだから。

だから、「よい演奏のはずだ」と思ってしまった時点で、他人の価値観をそのまま受け入れてしまっていることになる。
実際の演奏を聴いてもいないのに、だ。

自分の価値観で判断できるようにするためには、自分で判断することを繰り返していかなければならないのだろう。
だが、自分の知らない価値に気付くためには、他の人の意見を謙虚に受け入れることも有効である。

やはり、なかなか難しい事らしい。

できることは、問いかけ続けることだけなのかもしれない。

「私は、どう感じたのか?」
「私は、どう判断したのか?」

自問し続けることが、自分の価値観を確立していくことにつながるのだろう。

4件のコメント

  1. ちょっと違う話かもしれませんが…
    自分が属するコミュニティがネット上での風評に晒された事が過去にあったので、自分の目で確かめず、他人の(ときとして私怨混じりの)評価に流される奴が多いなぁ、とつくづく感じますね。まぁ自分も含めてですが…

    2chあたりの~叩きスレッドみたいなところの内容を鵜呑みにする人ってなんなんだろう…
    結構実態と違うことを書かれていたりして、「いいから見に来いよ」って思ったことのある奴のボヤきでした。

    1. お久しぶりです。

      他の人のいう価値観に乗ってしまうのは楽なのかな、と思います。

      自分で判断するためには、情報を集め、考えて、判断しなければならないのですが、それは結構大変なことです。
      乗ってしまうだけなら楽ですから、そのへんが原因ではないでしょうか。

      今年は講師はやらないのですか?

  2. 遅ればせながら、ご無沙汰しております。

    現在の開発の仕事が、当初2月で終わりの予定だったのが伸びており、今年は講師の
    仕事は断ることにしました。

    他人の判断に乗ることがある事自体は悪いことではないと思いますが、その評価の
    正体が何であるかには気をつけて行きたいです。

    1. 返信が遅くなりました。

      今年は、サブ講師がおらず、1人で会場入りです。
      ご存じの通り(^^、いつも、さまざまな用事をサブ講師の方にお願いしているのですが、今年は全部自分でやらなければならないようです (^^;;

      またいつか一緒に仕事できるといいですね (^^

      時間があるときに、また一緒に飯でも食いましょう。

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