新人研修物語(1章スタートダッシュ)

 

1章
スタートダッシュ

 

 

 

 

 

 

1.  方向を示す

 

「おはようございます。皆さんの新人研修を担当させていただきます、テクノセンスの長谷川です。二ヶ月間、よろしくお願いいたします。」

「よろしくお願いします。」

 

まだスーツに着られている感の拭えないA社の新入社員20人が勢揃いする前で、挨拶するところから新人研修が始まります。

 

私にとっては何度目かの新人研修の講師ではありますが、やはり緊張します。自分でも足や手が小さく震えているのを意識します。

前の日に何度も挨拶、導入(オリエンテーション)の練習はしているので、話に詰まったりすることはありませんが、特に初めてのクライアントだと緊張するのは仕方がありません。きっとこの先、何年続けても緊張はするだろうし、慣れてしまわない方が良いとも思っているので、この緊張を楽しむようにしています。

 

「私は皆さんがこれからなろうとしている技術者です。ハードウェアの設計からインターネット上のアプリケーションの開発まで、20年以上様々な開発に携わってきました。今はその経験を活かして研修の講師をしています。」

 

自己紹介はこれでお終いです。

 

新入社員の誰も私の出身地や星座、血液型を知りたいとは思っていないでしょう。合コンの会場でも、お見合いの席でもないのです。

緊張して、一言も聞き漏らすまいと頑張っている彼らに、余分なことは話す必要はありません。

知りたくなれば聞いてくるだろうし、その時間はこれからたくさんあるのです。

知りたいことをピンポイントで伝えることは、場の緊張を保つ上でも役に立ちます。

 

「それでは始めます。」

「最初に研修中のルールを説明します。」

 

彼らが集中しているうちに「グランドルール」を伝えてしまうことが、とても有効です。

グランドルールとは研修期間を通して適用する、基本的な約束事です。ファシリテーションの分野で使われている用語です。

 

私の場合、3つのグランドルールを設定します。

 

「まず、一つ目です。常にどんな質問でも受け付けます。私が話している最中であっても、分からないことがあれば手を挙げて質問をしてかまいません。

わからないことがあれば、その先の理解が止まります。だから、わからないことがあればその場で質問して疑問を解消して、その先を理解できるようにしてください。」

 

一日の終わりにまとめて質問を受け付けるやり方もありますが、それでは疑問の発生時点から一日の終わりまでわからないまま過ごすことになります。

一日中疑問を抱え、そのせいでわからない説明を聞かせ続けるのは可哀想でしょう。

 

さらに質問については、次のようなルールを追加します。

 

「初日の内容についての質問を最終日まで受け付けます。」

 

これは、いくつかのメッセージを受講生に伝えるルールになっています。

 

一つは一人一人の進度が違ってもよいということであり、もう一つはその一人一人の進度に講師である私が最後までそれに寄り添うということです。

念を押すために「きちんと理解して積み上げること」を話すことも良いでしょうが、研修中には何度も言うことになりますので、ここでは省きます。

 

私は、2つめのルールの説明のために、ホワイトボードに大きく「THINK」と書きます。

 

「英語の得意な人、どういう意味ですか?」

 

受講生に問いかけると、A君が手を挙げてくれたので、指名します。

手が上がれば指名するし、上がらなければ名簿を見て私が選べばよいので手が上がらなくても問題はありません。

 

「どうぞ」

「『考える』です。」

「ぶー、はずれ。他に?」

「?????」

「『考えろ』、です。これは講師としての私からの指示です。命令だと思ってください。研修期間を通して考えることをやめてはいけません。徹底的に考えてください。これが二つ目のルールです。考えろ、です。

これから皆さんは社会に出て、答えのない問題に取り組むことになります。その時に必要なのは、皆さんが自分で考えて答えを見つける力です。誰も答えを教えてくれるわけではありません。」

 

企業では「自律的に動ける人間」を求めています。

そのために必要なのは「考える力」なのです。

そのための意識付けを行うためのルールです。

 

最後のルールはこうです。

 

「眠たくなったら寝ていてもいいです。私は起こしません。」

「???」

 

おそらく今まで「寝ていてもいい」と言われた授業はなかったことでしょう。ですが、私は研修の間に「起きなさい」と言うことはほとんどありません。

 

受講生が寝てしまう理由はいくつかあります。

モチベーションが低く学びたくないと思っている場合、講師の話や課題がつまらない場合、前日に夜中まで勉強して睡眠不足な場合、遅くまで遊んでいて睡眠不足な場合、などです。

 

つまらない、モチベーションが低い、というのは講師の責任です。つまらない講義により寝かしつけておいて「起きなさい」もないでしょう。また、勉強して睡眠不足な場合には同情の余地もあるし寝たくて寝ているわけでもありません。

遊んで睡眠不足なのはどうしようもありませんが、講習を受けられないことが自分にマイナスだというのを実感すれば生活習慣を変えるきっかけにもなります。

 

つまり、最後のルールは2つの意味を伝えていることになります。

一つは、つまらなくて寝かすような研修はしない、という講師の意思表明であり、あとは自己責任を意識しなければならない、ということです。

 

これらのルールを最初に伝えるのが私の多くの場合のやり方です。

 

余談ですが、ある講師講習で初心者の講師の方が「私も、寝ていいよ、と言ってもいいでしょうか?」と聞かれたことがあります。

 

「寝ててもいいよ」と言うのは、講師にしてみれば非常に大きなプレッシャーになります。メリハリと魅力のある講習をできなければ、「おやすみなさい」と言っているのと変わりません。

 

その方には「残念ですが、寝かさないですむ、という自信が持ててからにしたほうがよいと思います。」と伝えさせていただきました。

 

2.  心を溶かす

 

研修室の前に立って新入社員を観察していると、彼らの緊張が手に取るように分かります。

 

社会人になる最初の研修であることももちろん原因ですが、彼らの前に立つ私の姿にも一つの理由があります。

 

私の格好は、色付きのシャツに、えんじ色のネクタイ、黒いスーツ、少し色の付いたメガネに、髪はオールバックです。どこかの怖いおじさんと間違われても仕方がない格好ですから、彼らが必要以上に緊張しているのも止むを得ないでしょう。

ですが、意識して緊張させるのも一つの作戦です。

 

グランドルールの説明が終わったら、次はグループ構成を決めます。

 

私はグループを作るときにあらかじめメンバーを考えることはしません。

なぜなら、講師が決めたグループ構成ではいろいろ勘ぐられることになりますし、問題が発生したときに「講師決めたグループのせいでこうなった」という逃げ道ができてしまうからです。

ですから基本的に『偶然』に頼ってグループの構成を決めてます。

 

「では、立ってください。」

 

部屋の中にスペースがなければ広い屋外に出ることもありますが、今回は移動できるスペースがあるので部屋の中で実施します。

みんな、いすをがたがた鳴らしながら立ち上がります。

 

「私が『せーの』と言ったら、1度手を叩いてください。いいですか?」

 

みんな、不思議そうな顔をしながらうなずきます。

 

「次に私が『せーの』と言ったら、2度、手を叩いてください。」

「次に私が『せーの』と言ったら、何回手を叩きますか?」

「3回?」

 

「そうです、いいですね。ではいきます。せーの!」

「パン」

「せーの!」

「パン、パン」

「あ、一つ忘れてました、私が『せーの』ではなく、『集合』と言ったら、一番最後に手を叩いた回数と同じ人数で集まってください。いいですね?じゃ、もう一度最初から。」

「はい」

 

何人かがぱらぱらと返事をしてくれますが、返事の善し悪しなどどうでもよいので、すぐにまた始めます。

 

「せーの!」

「パン」

「せーの!」

「パン、パン」

「せーの!」

「パン、パン、パン」

「集合!」

 

戸惑いながら3人のグループがいくつかできあがります。

 

最初はどうしても動きが遅いことが多くなります。自分たちがなぜこんな事をしているのか分かっていないでしょうから、当然でしょう。

 

「遅いですね。次は、もっと早く動いてください。」

「では、もう一度いきます。あ、今度集合するときには、今のメンバーと違う人と一緒になってください。」

 

最初のグループは多くの場合「仲良しグループ」になります。

ここではできるだけあまり親しくない同士をくっつけたいので、条件をつけてばらす工夫をします。

 

「せーの!」

「パン」

「せーの!」

「パン、パン」

「せーの!」

「パン、パン、パン」

「せーの!」

「パン、パン、パン、パン」

「せーの!」

「パン、パン、パン、パン、パン」

「集合!」

 

今度は、ばたばたと慌てて集まりました。

中には運動不足でしょうか、軽く息が上がっている人もます。

手を叩く回数はグループにしたい人数によるので、新入社員研修では5回か6回が多くなります。

今回は20人なので4つのグループができあがりです。

 

「では、今集まっている単位でグループとします。これから机をグループ単位に並べ直してもらいます。条件は話し合いがしやすい配置であること、ホワイトボードが見えること、私の顔が見えること、です。

やることが分からない人はいますか?」

 

やるべき事は伝わっているようです。

 

「何か質問はありますか?」

 

手が上がりました。

 

「いいですねぇ。質問はどんどんしてください。何ですか?」

「ホワイトボードの位置は、今ある場所でいいですか?」

「はい、大丈夫です。」

「他には?」

 

手が上がりません。

 

「制限時間は5分です。」

 

私はホワイトボードにはりつけてあるキッチンタイマーをセットして、最初のスタートの合図を出します。

 

「では、作業開始。」

 

作業している間に、私は作業をしている彼らの様子を観察しますが、この時点で全体の主導権を握りそうな人の見当がつく場合もあります。ですが、リーダーとして適しているか、単に目立ちたがりかの区別は難しいので、参考程度に見るだけです。さらに見ていると、良く気のつきそうな人、言われるまで動けなさそうな人など、さまざまな個性が見えてきます。

 

ぴぴぴぴぴぴぴぴ。

 

キッチンタイマーが鳴る頃には、研修室の中には4つの机の島ができ、みんながこちらを向いて座っています。

 

こちらを向いている表情を見ると、最初のがちがちの緊張がだいぶ解けているのが感じられます。

 

『せーの!』で手を叩いて、集まるために歩いたり走ったりしたこと、続いて机の配置を直す作業をして身体を動かしたことがアイスブレークの役割を果たしているのです。

 

最初に怖そうな私を見てがちがちに緊張していたところから、わけも分からず動いて、作業をする、という流れで一気に緊張が解けていきます。

最初の緊張との落差が大きいほど、緊張緩和の効果は大きいものです。

 

「では、次は自己紹介をしてもらいますが、普通にしてはおもしろくないので『他己紹介』をします。班の中の誰かを紹介してください。」

 

『他己紹介』は、私が10年ほど前に使い始めたときには誰も知らず、私もコミュニケーションの導入のアクティビティとして自分で思いついたものですが、最近はいろんなところで実施されています。

 

「条件は自分以外の誰かを紹介すること、班の発表が終わった時に、紹介していない人がいないこと、紹介されていない人がいないこと、です。発表時間は2分以内にしてください。」

 

『右隣の人を紹介してください。』などと指示をしても良いのですが、どうすれば良いかを考えることも練習の一つなので、できるだけ曖昧な指示にとどめるようにします。

 

「なお、必ず入れてもらいたい項目があります。専門教育を受けた人はこれまでの経験や学んだことを入れてください。それと、いろんな質問をして話を引き出して、できるだけおもしろく発表してください。一番おもしろい発表をした人が勝ちです。」

 

実際には、勝ったって何があるわけでもないのですが、この一言を入れるだけで勢いが違ってきます。

 

「やることが分からない人はいますか?」

 

手が上がりません。

 

「それでは始めますが、話し合いに何分必要ですか?」

 

ここで手が上がることはなかなかありません。

そこで、先ほどの観察で主導権を握りそうだな、と目星をつけていた人を指名し聞いてみます。

 

「では、君、何分ぐらいかかりそう?」

「15分・・・ぐらい・・・?」

「それは長いな、10分にします。

では、作業開始。」

 

最終的には、私が時間を決めるのですが、自分たちで決めた時間に近ければ自分たちで決めたという意識が芽生えます。

課題を自分達で決めた時間内に終わらそう、という意識が芽生えることで、取り組み方が違ってくるのです。これはモチベーションを高めるための一つのテクニックです。

 

話し合いの仕方には細かい指示はしません。

 

見ていると一人の説明をみんなで聞いてる班、二人組になって話している班などさまざまです。実際には一人の説明をみんなで聞く必要は全くなく、それをしていては時間が足りなくなるのですが、それに気付くのも勉強なので、放っておきます。

 

ぴぴぴぴぴぴぴぴ。

 

「では発表してもらいます。

最初に発表したい班は手を挙げてください。」

 

順番に発表させてもよいのですが、これも自主的な参加を促すためのテクニックです。

指示を減らし自主的な判断を積み重ねることが、あとあと大きな効果を生むようになります。

 

最初は顔を見合わせながら順番を話し合おうとするグループもありますが、のんびりしていると残っている順番になってしまいます。そのため、こんなことでも繰り返していると、簡単な意志決定を瞬間に行えるようになっていきます。

 

発表を聞きながら、経歴や知識についての質問、趣味についての共感や自分の趣味や経験の開示をしていきます。例えば、「バイクに乗るのが好きです。」と言われれば「何に乗っていたのですか? 私も昔は1100ccのバイクに乗っていました。」という具合です。

最初の自己紹介の時にはそんなことを話しても頭にも入らなかったでしょうが、ここでは緊張が和らぎ、へんなことをやらせる講師という興味もあってけっこう熱心に聞いてくれます。他己紹介の発表は私の自己紹介の場でもあるのです。最初のオリエンテーションの時にするよりはずっと効果的です。

 

発表には1人2分で20人なら40分、話し合いの時間、私からの質問の時間を入れれば1時間半から2時間ほどかかります。20人で1時間半もかかる自己紹介と聞けば「長すぎる」と思われる人がいるかもしれませんが、それだけの価値は十分にあります。

 

他己紹介は、相手の話を突っ込んで聞くためにアイスブレークとしても機能し、コミュニケーションの訓練にもなります。私が質問を通して受講生の知識、経験レベルを把握することもでき、それが1時間半でできてしまうのですから、上手に使えばこれほど便利なアクティビティはありません。

 

発表が上手な人がいれば、すかさずほめておくことも大切です。

ここでほめられたことが研修期間を通してのモチベーションにつながる人もいます。

 

全員の発表が終わったところで、あらためて私が自分自身の紹介をすることもあります。

受講者の趣味や傾向が把握できているので、自己紹介も相手の興味に沿った内容にすることができ、より伝わりやすくなります。

 

それが終わったらいったん休憩です。

 

 

◆コラム◆ 受講者の気持ち

 

講師をする際には受講者の心理状態について常に関心を持たなければなりません。

心理状態を知るだけではなく、目的を持って心理状態を誘導することも、効果的な研修のためには大切な事です。

同じようなアクティビティを使っても、人が変われば効果も変わります。

常に観察を怠らず、どのような心理状態でいるのかを気にかけることが、よりよい研修の実施には不可欠です。

 

最初のオリエンテーションではできるだけ不安を取り除くことに心がけることが大切です。私は「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、ということわざは嘘だ」という話から、知らないから学ぶのだ、知らないことは恥ずかしいことではない、ということを伝えるようにしています。知らないことは恥ずかしくないが、学ぼうとしないことは恥ずかしい、と伝えることで学習する気持ちが出てくることもあります。

 

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