教育が属人的であること

昨日講師仲間と話をする機会があり、私の講習は私に「属人的」であるという話が出た。
それについて少し考えてみたいと思う。

まず、私の行う教育が属人的であるか、という点については「YES」と応えざるを得ない。
私がやってることが、誰にでもできるわけではないから間違いない。

次に、それは「私だけ」にしかできないものなのだろうか?
それは違う。

少し違うと言われるかもしれないが、そば打ちを例に考えてみたい。

そばを手打ちできる人はいる。
だが、できない人もいる。
そういう意味では属人的なものである。
私が実施している教育と同じだ。

それでは今そばを打てる人しかそばを打つことができないのか?
それは違う。
そば打ちの練習をすれば、誰でも打てるようになる。

私の行っている教育も同じ事である。
きちんと学び、練習すれば誰でもできるようになる。
最初のハードルはそば打ちよりも若干高いかもしれないが、不可能なことでは絶対にない。

もう一つ、属人的である、という話と共に「カリキュラム」の話も出た。

教育研修では最初に「カリキュラム」がある。
学ばせる目標があり、それを学ばせるための「過程」をあらかじめ計画にしたものがカリキュラムである。
これはまちがっていない。

だが、そのカリキュラムに、例えば「分単位」で実施時間が規定された場合にはどうなるだろうか。

早く学べた人は時間まで無為に過ごすのか?
学ぶのが遅い人は時間が来たら置いてきぼりになるのだろうか?

どちらも望ましくない。

つまりカリキュラムがあるのは当たり前として、それをどのように運用するかというのはあらかじめ計画できないのだ。
受講生は毎回違う人間なので、それは当たり前の事である。

受講生に応じてきちんと学ばせ、早く進めばそれ以上の学びを提供し、遅ければきちんと理解できるまで待つことができるのは、現場の講師だけなのだ。
また、理解の早い人遅い人が混在しているのも、これもまた当たり前である。
その際にすべての人に学ぶ目標を与え、モチベーションを維持するのもこれまた現場の講師の役割なのだ。

あらかじめカリキュラムが定められていても、それが現場で不適であればより適したものに変えて実施することが、同じ時間を使ってよりよい学びの機会を与えることになる。

100パーセントのカリキュラムは存在しないと思う。
もしそれを作れれば、それはすばらしいことだと思うし、最大の効果を目指さなければ90%はいけるかもしれない。
だが、私の今の力では100%は逆立ちしても無理である。

つまり、属人的な技術である講師スキルを持たなければ、せっかくのカリキュラムも意味がなくなってしまうこともあるし、講師スキルが高ければカリキュラムに期待される以上の成果を期待することができるのだ。
ベストなのは、よく寝られたカリキュラムを講師スキルのある講師が実施することである。

私が新人研修を行う上で注意していることがある。
まずは、あらかじめ定められたカリキュラムは全て期待される以上にこなすこと、である。
あらかじめ期待される成果をあげること。最低限の仕事である。
受講生はカリキュラムを見て、受講するかどうかを決めるのであるから、当たり前の事である。

そしてより効率よく学んでもらうことで時間を作り、カリキュラムで期待される以上のスキルを与えることにも心がけている。
それは技術研修におけるコミュニケーションスキルであり、リーダーシップスキルであり、チームビルディングスキルなどである。

技術研修と位置づけられている新人研修で、これだけのスキルがおまけとして付いてくるのなら、講師の属人的なスキルも悪いものではないだろう。

ちなみに、そば打ちは誰でもできる。
だが、美味しいそばを打つには、そば打ちのスキルを高めることが必要である。

人が驚くようなうまいそばを打つスキルを身につけるように、より大きな学びを作るための講師スキルを身につけることが私の望みである。
そしてそばを打ちたいと思う人が増えるように、講師スキルを身につけたいと思う人が増えることも、また望みである。

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