Archive for 2015年12月9日

Takanori

すぎるすぎる

言葉使いは時とともに変わっていくもので、変化を押しとどめることはできない。
同じ言葉を使っていても、意味が変わっていくこともある。

私はそのような言葉の変化はあるものだ、という認識はあるので、あまり気にしないようにしてはいるのだが、それでも、ときどき気になる言葉がある。

最近(?)気になる言葉の一つが「やばい」である。

なんでもかんでも「やばい」で表現してしまうようでは、日本語の表現力を発揮できない、というか言葉による表現をあきらめてしまっているように思える。
主として口語で使われるので、ノンバーバールの表現方法により細かいニュアンスはあるのだろうが、すごい、すばらしい、たいへんだ、かわいい、などなど、さまざまな言葉があるのだから、それをちゃんと使い分けようよ、と思ってしまう。

それともう一つ気になる言葉がある。
「すぎる」
である。

これは口語による表現ではなく、さまざまなメディアが文字ベースで競って使っている。

曰く「美人すぎる」「美味しすぎる」「有名すぎる」「劇的すぎる」「大好きすぎる」などである。

「すぎる」には元々「何々を越えて」という意味がある。

それを考えると次のような文章はこう考えるべきだろう。

「美しすぎる海上自衛官の歌姫」
http://matome.naver.jp/odai/2136775531560867901
「海上自衛官の歌手であれば、せいぜいこれぐらいの美しさだろうがその勝手な基準を越えて美しい」

「武蔵小杉で美味しすぎるおすすめラーメン10選」
https://www.travelbook.co.jp/topic/2017
「武蔵小杉のラーメンはこのぐらいのレベルだろうが、それを越えて美味しいラーメン10選」

香川「劇的すぎる」 ロスタイムに決勝ゴール
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1575745.html
これなどは何を基準にして「すぎる」のかよく分からない。

実際の所は、すでに「すぎる」が使われすぎていて「ちょっと」「とても」みたいな言葉が「すぎる」に置き換わってしまっているのだろう。
私の個人的な感覚では「すぎる」というのはとても強い言葉である。

「痛すぎる」ならば「むちゃくちゃ痛いんだろうな」と感じるし、「辛すぎる」と聞けば「地べたに這いつくばって起き上がれないような状態」を想像してしまう。

「とても美しい歌姫」「素晴らしく美味しいラーメン」「劇的な」でよいではないかと思ってしまう。
必要なら他の言葉を付ければよいが、すべてに「すぎる」が付くのは違和感がある。

インパクト感を表すのに便利なのでメディアなどで多用されているのだろうが、表現力がないんですよ、と宣伝しているように思うのは私だけであろうか。
仕事柄、言葉を選ぶ習慣が付いてしまっている。
この一言を発したら、相手がどういう気持ちになるだろうか、何を考えるだろうか、を常に意識している。

逆に、相手の言葉を一生懸命受け取る癖も付いてしまっている。
だから「すぎる」と付けられてたいしたことがないと「なにを大げさな」と思ったりするのだ。

こういうのはスルーすることができればいいのかもしれないが、それをしてしまっては自分が言葉を使うときにもぞんざいになったりしそうで怖いし、やはり細やかな表現力を持った日本語という言葉は大切にしたい。
こんなのは「日本語の単純化を心配しすぎる講師」とかになるのだろうか。

Takanori

社会人基礎力の意味するところ

私が研修を担当させていただいている研修会社では、数年前から社会人基礎力を新人研修に取り入れている。

社会人基礎力とは経済産業省が提唱している「働くために必要な基礎的な力」で、以下は、経済産業省のホームページに書かれている内容である。

「「社会人基礎力」とは、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、経済産業省が2006年から提唱しています。企業や若者を取り巻く環境変化により、「基礎学力」「専門知識」に加え、それらをうまく活用していくための「社会人基礎力」を意識的に育成していくことが今まで以上に重要となってきています。」

http://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/
先日、講師勉強会で「成長とは?」という課題にて一日グループワークを実施してもらった。

手順としては「成長を感じられるシーンをたくさん書く」「それを整理する」「出てきた結果をさらに整理する」だけである。

主としてKJ法を用いながら作業してくれていた。

例えば、いくつかのシーンを集め、「これは「器が大きい」って感じだな。」となどと言いながら、グループ分けをし「「器が大きい」ってどういうことだろう?」と考えて、結果的に、「自信がある」「他者を受け入れられる」に整理する、という具合である。

これを一日繰り返して行く中で、最後に出てきた答えは以下のようなものであった。

「考える力」「行動」「継続」「コミュニケーション」

「行動」と「継続」は「行動し継続する力」というように一つにまとめさせてもらったのだが、これは社会人基礎力の3つの能力要素としてあがっている「考え抜く力」「前に踏み出す力」「チームで働く力」にそのまま対応する。

このような結果を考えて導いた勉強会の参加者の方の中には、自分の出した結果にびっくりしていた人もいたが、つまりは、考える力、行動する力、コミュニケーションの能力を伸ばすことが成長のためには必要であり、それを伸ばすことが働く力につながる、という結果的に当たり前のことを見つけたことになる。

当たり前のことではあるが、今まで個別の事象だと考えていた「成長」の根っこを大きく絞れることに納得できただけでも大きな気付きだったに違いない。

私は「考える力」「自主性」「コミュニケーション」を研修の欠くべからざる要素だと考えているが、「自主性」というのも「自ら行動すること」と解釈すれば全く同じである。
働く力を得るためには成長しなければならず、成長するためには、「考える力」「行動と継続」「コミュニケーション」を伸ばすことが重要である、ということをきちんと理解していることが大切なのだ。

これは全ての学びの場において共通し、考える力や行動、コミュニケーションが「どのように現れるか」が違うだけである。
もちろんスポーツ指導の場も例外ではない。
研修会社で社会人基礎力をカリキュラムに取り入れた際に、これは価値がある、と判断したが、同時に全ての講師がきちんと受講生に伝えることは難しいだろう、とも思った。
そのため、なんとか現場で困らないように、というのを主題として、同僚の講師の方には、言葉の定義に対する考え方、どのようにコメントするかのテクニック、などを伝えるための短いセッションをさせてもらった。

その時は、講師育成の講師ではなかったので使える時間には限界もあったので、できることは限られていたのだが、今は講師育成を担当させていただいている。
社会人基礎力で提唱されていることの本質的な意味を少しでも伝えることができるように、考えていきたいと思う。

ただ、結果だけを伝えても「衝撃を受けるような気付き」は生まれない。
気付きがなければ「ああ、なるほど」で終わってしまうことだろう。

どのように伝えていくか、どのように気付いてもらうか、いつがそのタイミングとしてよいのか、全体を見ながら考えていきたい。

Takanori

トーナメント大会の問題

先日、ヒーローズカップ関東大会というのが熊谷ラグビー場で開催された。
トーナメント形式で最終的には日本一を決める小学校高学年の大会である。

主催者は、元日本代表の林敏之さんであり、全国を飛び回りヒーローズカップを開催されている実行力には本当に敬服する。

実は、小学生が参加するトーナメント大会というのは、埼玉県ラグビー協会では実施されていない。
埼玉県では交流会が開催されているが、その交流会では得点ボードも存在しないし、もちろん記録に残さない。

これは「勝ちにこだわることはよくない。」という考え方からであるが、その「勝つ」ということを巡ってはさまざまな考え方が交錯しており、さまざまな誤解があるようなので整理をしておきたい。

1つ1つの言葉の意味がとても重要なので、必要がある場合には言葉の定義をしながら話を進めたい。

林敏之さんがトークショーにおいて「スポーツだから勝たなければダメ、勝ち負けにこだわらなければエンターテイメントやトレーニングになってしまう。」という旨の発言をされていた。

林敏之さんの意図を考えると「エンターテイメント」というのは「競技性のない運動」というイメージかと想像できる。
「トレーニング」についても同じような「競技性のない自己鍛錬のための運動」という意味かと思われる。

つまりスポーツとは「競技性がない運動」ではだめである、と言われていると思う。

これは正しい意見である。
特にチーム対チームで戦うラグビーのような種目において、競り合って相手に勝つことが大切であることは間違いない。

ただし、試合(試し合い)、ゲーム(文字通りゲーム)といわれるように、「勝たなければ意味がない」というようなことではないので注意が必要である。

相手に勝つことをモチベーションとして練習をし、練習の成果を試合によって競い合う、というのが本来の姿である。
そして、その競い合いと練習を楽しむ、というのがラグビーというスポーツの本来のあり方である。

また、その競い合いと練習の中から、心と身体を育て鍛えていく、というのも特に年少期のスポーツでは大切な要素である。

つまり、競い合って相手に勝ちたい、と考えるのはラグビーというスポーツにおいては重要な要素である。
決して勝たなくてもよい、ではなく、勝ちたいと考えて努力するのは正しいことなのだ。

それではなぜ、勝たなければ上に行けずに優勝をめざすトーナメント大会や、勝ち負けを記録に残すことをしないほうがよい、という意見があるのだろうか。

答はプレイをする子供ではなく、指導する指導者の方に問題があるからだ。

指導者が勝ちたくなり、子供を自分の思い通りに動かそうとしたり、怒鳴りつけたりすることで、結果的に、将来がある子供のチャンスを潰してしまったり、ラグビーを嫌いにさせたりしてしまう。
このようなことは、実際に高校などの指導の現場で起きている。
高校で燃え尽きてラグビーから遠ざかってしまうような子供が多いというのは、トーナメント大会の弊害があることの証拠であろう。

同じようなことが、小学生、中学生のラグビーの現場でも起きている。
さらに、勝ちたい指導者と、子供を育てたい指導者との軋轢からスクールが分裂してしまうようなことも起きている。

解決策は一つしかない。

指導者が勝ちにこだわらないようになることである。
勝つことではなく、勝てる力を子供に与えることを目的とし、子供が戦った結果を受け入れる、ということができるぐらい指導者が成熟したならば、いくらでも勝ち負けが記録に残る大会に出ればよい。

だが、現在は指導者が先に熱くなり、勝ちたくなり、子供を犠牲にしてしまう。

だから、トーナメント大会を開催することよりも、指導者をきちんと育てることの方が先なのだ。
指導者が育たないうちに、小学生のトーナメント大会を広く広めることは、将来有望な選手になる可能性のある子供をラグビーから遠ざけることになってしまい、結果として日本のラグビーの弱体化にもつながっていくことになるだろう。

決してトーナメント大会がいけないわけではない。
勝つために子供を使い潰してしまうような指導者がいることが問題なのだ。

単純に順番の問題である。

指導者を育て、トーナメント大会を有効に活かせるような環境ができてからの大会であれば、なんの問題も無いどころか、よいモチベーションとすることができるだろう。

勝ち負けについては他にもある。

指導者が子供に対して「勝たなくてもいいよ」というのは論外である。
子供は勝ちたいのだ。
勝てるだけの力を与えられない指導者が言い訳として「勝たなくていいよ」と言ってしまっては、なんのためのラグビーなのか分からなくなってしまう。

指導者の理想は「勝て」と子供に言い、子供が全力を尽くして戦うモチベーションと戦うスキルを与え、子供たちが自ら判断しながらゲームをできるようにし、試合で勝てたら子供の努力と力を認めてさらに上を目指させ、負けたら自らの指導力のなさを悔いて努力をする指導者であるはずだ。

将来を担う子供たちと、日本のラグビーのために、このような指導者がたくさん育つことを心から願っている。

Takanori

継続こそ力

6か月続いた研修の終わりが見えた。

内容は、メンター向けのコーチング研修で、人の成長の考え方、傾聴、質問、話し方、問題発見などの必要なスキルを身につけていただくことをめざした。
月に一度の集合研修を6回、足かけ半年の研修である。

一度に全員参加は難しいとのことで、同じ内容を2回ずつ実施しているが、最終回のカリキュラムを一度実施し終わった。
あと1回、同じ内容で実施するのだが、これまでの経験から次回の開催も問題はないだろうと思われる。

半年という期間の長さは、研修内容の定着を図るためであったが、その意図はそれなりに達成できたかと思われる。
現場での実践と研修での学びを繰り返すことは、実際に効果があったようだ。

コーチングに関するさまざまな要素を網羅することではなく、行動に変化が現れることを主眼として研修を設計して実施したのだが、意識付けからモチベーションを与えること、スキルを学び訓練することによって行動の変化を生み、さらに今後の継続につなげるという一連の流れを作ることができたと感じている。

しかし、問題もまだまだある。

長い期間、それも忙しい業務の合間を縫って参加していただいたのだが、半年の間、全員に対して参加意識を高く保つことは難しかった。
どうしても、業務が忙しい中、抜け出せない人もいたし、一度休むと、次に参加しづらかったというのもあったかもしれない。
必要だ、という意識を強く持っていただけなかった方もいると思う。
これらの問題については、私の力不足が悔やまれる。

参加人数が行くまでわからない、2回のどちらに参加するかもわからないので毎回参加者の構成が異なる、全ての回に参加してもらえるとは限らない、グループワーク主体で進めるため1回目と2回目で同じ内容を実施するのが難しい、などへの対処がすべて意図したとおりに機能したかどうかも検証が必要である。
特に、参加できなかったことにより学べなかったことに対するフォローは難しい。
言葉により伝達することは簡単ではあるが、身につくための体験がないとどうしても腑に落ちていかない。
与えられた期間をフルに活用する研修とすればするほど、参加できない方への対処が難しくなるのはジレンマである。

逆に参加を続けてくれた人には、それなりの気づきと学びを得ていただけたのではないかと思う。
「全社員にこの研修を受けてもらいたい」という過分とも思われる言葉もいただけた。

だが、実際の成果は、研修終了後にどれぐらいの変化が生まれるか、によって判断されることになる。

研修により何人かのコアメンバーは生まれてくれたと思う。
きっと、その人たちを中心にして継続的な変化が続いていくことだろう。
今後もさまざまな条件、制約のある研修を担当させていただくことがあるはずだ。

それらに地道に真摯に向き合い続けることによって、さらによい研修につなげることができるに違いない。
人の力を引き出し、意識を高め、継続的な行動の変化をもたらす学びの場を作る技術をもっと磨きたい。

いろいろな制約と、その中で工夫を凝らすことが私自身の進歩につながるのは間違いない。
できることだけをするのではなく、できないこと、やったことがないことに挑戦することをこれからも怖れずに続けたい。
新しい知識を吸収し、自分の身とする努力も欠かせない。

続けることでしか得られないものがある、というのを最近強く思う。

「継続は力」ではなく「継続こそ力」という意識が今の私の中心にある。