私は立川談志が好きである。
天才だと思うし、あの反骨精神、芸風、自信、芸に対する真摯さ、どれも素晴らしい。
あちこちでけんかをして問題も起こしているが、それも含めて、立川談志が好きである。
そんな立川談志の言葉がFacebookに「名言」として流れていた。
「よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」
職人の言葉である。
私にはすごく分かりやすい。
次いで、なんとなくネットで「立川談志」を検索してみた。
アンサイクロペディアであるが、次のような言葉があった。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97
「西洋音楽史に残る怪物、ヘルベルト・フォン・カラヤンの残した言葉に、「曲が終わった後、聴衆も演奏者も自分も感動しているようでは三流、客と演奏者が感動しているのが二流、客だけ感動しているのが一流」という身もフタもない芸術の真実を語ったものがあるが、まさにそれを地で行くように、聴衆を楽しませて、本人はまったく感情のブレを見せることはしない。
そのため、たまにカラヤンの言う客も自分も魂を揺さぶられるような三流の芸をやってしまうようなことがあると、全国紙の記事にすらなる。もっとも、数年に一度しかないからこそ記事になるのだが。 」
である。
これも、とても納得できてしまった。
親しい知り合いにこの言葉を見せたところ「逆じゃないの?」と言っていたのだが、違う。
職人として芸となす場合には、自分が感動しているようではいけない。
芸なのだから、見せることが、演じることが当たり前でなければならないし、その当たり前の事ができれば、観客が感動してくれる。
それが芸である。
その芸で自分も感動してしまっているようでは三流に違いない。
講師をしていると、受講者から感動をもらうことがある。
だが、回数をこなすにつれて、その感動をもたらしてくれる受講生の成長は、講師という芸についてこなければならないものだ、と思うようにもなってきた。
私がきちんと講師をできれば、その成長が付いてきて当たり前、にならなければならないのだ。
その成長が計算できてはじめて「芸」になる。
私の芸は、感動できるような成長を受講生にもたらすことである。
それに対して、受講生が感動してくれるのは素晴らしいことであるし、そうでなければならない。
だが私にとっては、それが当たり前にならなければならない。
受講生に感動してもらえるように、その感動の元となる成長をもたらす芸を磨く、というのが、私のあるべき姿なのだろう。
立川談志やフォン・カラヤンのような天才が達した境地に、私のようなものが挑むのは無謀なのかもしれないが、挑む権利ぐらいはあるはずである。
私は常々「私は講師という仕事をする職人である」と言ってきている。
職人として、講師という芸を磨き、少しでも、私の好きな立川談志の境地に近づきたい。