私の研修は手抜きである。
少なくとも、見学に来た人から見ればそう見えるだろう。
朝のコミュニケーションシートの対応以外は、いつ来ても座ってにやにやしているか、うろうろ歩き回っているか、受講生と雑談しているか、である。
研修室にいないことさえある。
見回って、悩んでいる人の後ろで立ち止まっていたと思えば、なにもせずにまた歩き始めたりする。
しかし、受講生はずっと「なにか」をしている。
そこに講師がいるかいないかは「彼らにはほとんど関係ないらしい。
どうしても質問しなければならないことができた場合に、やっと思いだし、どこにいるのか探すような状態である。
座学も極力少なくする。
受講生は、私が座学するのを嫌いだと思っている。
結果として、話している時間はとても短くて、講師として仕事をしているようには見えない。
どう見ても手抜きだ。
だが、受講生の動きは座学の多い普通の研修よりは間違いなく良い。
自分達で問題を見つけ、解決していく。
休め、と言っても休んでくれないぐらいに集中して作業をしている。
これは、講師が何もしないからである。
しかし、講師が何もしてくれないから仕方なく、ではない。
課題は、私が出したものである。その課題に必死に取り組んでいる。
しかたなく、であれば私の出した課題に必死に取り組むことはないだろう。
受講生はすでに知っている。
教えてもらうだけでは学べないことを。
私の出した課題をやり切れば、必ず何かを学べることを。
この二つを信じてもらえれば、課題を通して受講生と対話ができる。
うろうろしているとき、私は受講生を観察している。にこにこしながら見ているときには、同時に声を聞いている。
誰が悩んでいるかを把握し、一人一人の行動を分析している。
座学を好きでないのは間違いないが、たくさん話して疲れるからではない。
効果の薄い、密度の低い時間になることが多いから好きではない。
作業中に手が止まれば声をかけるが、動いていれば心配はない。まだ悩み始めて30分である。半日ぐらいは放っておけばよい。
困っている人にこちらから手をさしのべれば、努力する、考えるチャンスを奪ってしまう。
困って来た時に与えるのは、答えではなく、できるだけ短いヒントだ。
毎度答えを教えては、甘えてしまうし、見つける喜びを奪ってしまう。
悔しがらせる目的以外で、答えは教えてはいけない。
つまり、よっぽど困った人に少しだけヒントを与えることになる。
講師をしていると教えたくなる。
ほら、知ってるよ、と自慢したくなる。
でも、講師として、してはいけないことである。
教えることを我慢し、手抜きでも学べる課題を考えることが、講師の仕事である。
研修会場では手を抜こう。
手を抜けるだけの準備をきちんとしよう。
それが、自律的な学びを引き出すことになるのだから。