7章 気持ちの問題
1. チーム内での不和
休憩時間に外で考え事をしていると、暗い顔をしたO君がやってきました。
「先生、うちの班、うまくいかないんです。班替えしてもらえませんか?」
「そうか。でも、現場に出たら、上司も選べないし、お客さんにもいやな人がいるかもしれないよ。その時に自分で環境を変えられる?」
「・・・・・・・・」
研修でグループワークを行うと、相性や好き嫌いといった人間の感情に根ざす不和が起きてきます。やり方が分からなくて試行錯誤するのはいいのですが、誰かが苦手という感情があると、ちゃんとした話し合いもできなくなります。
これは人間である以上やむを得ません。誰とでも仲良くできることの方が不思議ですし、実際にできればすばらしいことですが、なかなかそううまくいくものではありません。
ですが、いやだから逃げる、ということができないのも仕事では当たり前の話です。
会社に入れば上司は選べませんし、お客さんも選ぶことはできません。
大切なのは与えられた環境の中で、目的に向かって自分のベストを尽くすことです。
しかし「あの人は苦手」という感情が芽生えてしまうと、普通はそれがどんどん大きくなっていくものです。
表面的なつきあいならできるのでしょうが、日に日に作業負荷が高くなっていく中で、どうしてもより深い関わりを持たなければならなくなってくると、そのような相手に対する気持ちと直面せざるを得なくなります。
「今日のワークショップはこの題で行います。」
だまってホワイトボードに書いていきます。
『長谷川先生の悪いところをたくさんあげてください』
「今回のワークショップでは、私の悪いところをできるだけたくさんあげてください。悪口です、遠慮はいりません。思ったことを何でもあげて、できるだけたくさん出してください。時間は15分です。」
みんなの目がきょとんとしたり、いたずらっぽく光ったりしています。
にやにやしたり、妙に深刻な顔をしていたりさまざまです。
「発表は口頭で、発表者は自由。できるだけたくさんあげてください。人の悪口をこんなにおおっぴらに言えることはそんなにないですよ。貴重な機会です。それでは作業開始。」
意外と悪口というのはおおっぴらには言いづらいものですが、私ができるだけ軽い雰囲気で話したことで、だんだんと盛り上がってきます。あちこちで笑い声が上がりつつ、さまざまな私の悪口があげられていきます。
ぴぴぴぴぴぴぴぴ。
「それでは発表をお願いします。」
私は発表された自分の悪口をホワイトボードに書いていきます。
「うーむ」とうなりながら書く事もありますが、発表のたびに笑いが起き、全体に楽しそうな雰囲気が広がっていきます。
「うーむ、こうやってみると私は本当に悪いやつですねぇ。
では、次の課題に移ります。」
私はホワイトボードの課題の「悪い」を消して「良い」と赤のマーカーで書き直します。
「次の課題はこれです。
私のいいところをたくさんあげてください。
時間は10分です。今回も発表は口頭で、発表者は自由。できるだけたくさんあげてください。それでは作業開始。」
さっきの楽しい雰囲気のまま、ワークショップが進んでいきます。
ぴぴぴぴぴぴぴぴ。
「それでは発表をお願いします。」
先ほどと同じように発表された内容をホワイトボードにそのまま書いていきます。
中には気恥ずかしくなるようなほめ方をしてくれる班もありますが、黙ってそのまま書いていきます。
全部の班の発表が終わりました。
「さて、いいところ、悪いところ、いろいろありますね。どちらかというと悪いところの方がたくさんあったようですが。」
自然に笑いがわきます。
「最近、班替えをして欲しい、という声をちらほら聞くことがあります。
うまくいかないから班替えをして試してみたい、という声と、話し合いがパターン化してきてつまらないから新しい班で試してみたい、という意見です。」
一瞬にして笑い声が静まり、聞く態勢になります。
「新しい挑戦のための班替えはこれからもしていきます。ですが、うまくできないからという理由での班替えは行いません。
皆さんが現場に出たときに、上司を選べますか?仕事を一緒にするお客さんを選べますか?どちらもできませんね。
みなさんは与えられた環境の中で、目的をこなすことを求められるのです。」
「でも、やっぱり苦手な人、というのは居ますよね。
私も居ます。でも、その人ともうまくやらなければなりません。
その時に一つ、気にしておいて欲しいことを伝えます。」
「さっきやってもらったように、人間はいいところも悪いところもたくさんもっています。苦手な人、嫌いだと思った人の悪い面をどんどん探してしまうのが普通の人です。でも、その人についていいところを探そうと思えば、いいところもたくさんあるはずです。
もし、苦手だな、と思ったら、その人のいいところを一生懸命探してあげてください。そうしたら、一緒に働くことがいやではなくなるかもしれません。
悪いところを探すのは簡単ですが、いいところは一生懸命探さないと見つからないことがあります。
そのことに気をつけて、どうしたら目的を達するために一緒に仕事ができるかを考えてみてください。」
このワークショップは、本来ならば受講生同士で行わせるのが一番よいのですが、中途半端に親しい状態だと感情のしこりの原因になってしまう場合もあるでしょう。
そのために苦肉の策として「講師をネタ」にして考えてもらうようにしています。
不和の問題は共同作業をするときにはつきものです。
私以外が講師の研修では、問題を避けるために班替えを行うようなことも多いようですが、私はその問題に立ち向かえる力が必要だと考えています。
そのためにこのような時間を技術研修の中にも作るようにしています。
2. 人を認める
私の研修ではほとんどの場合に「コミュニケーションシート」と呼ぶ日報を書いてもらいます。そこには、その日の悩みや質問、成果や喜びがたくさん書かれてきます。
私は、翌日の朝にそのコミュニケーションシートへの対応をすることになります。
技術研修が始まって間もない頃のM君のコミュニケーションシートです。
「私は自分の技術力にあまり自信がありません。周りのできる人を見ていると自分のできないところが見えてきて悲しくなります。でも、今は自分のできることしかできないので、一生懸命に勉強してできることを増やしていきたいと思います。」
私が毎日本気で対応しているのに応えて、コミュニケーションシートの内容にもたくさんの本音が出てくるようになります。
基本的に朝の対応は匿名なのですが、必要だと思えば実名を出すこともあります。
「M君はこつこつと自分のできることを続けています。こつこつと継続的な努力を続けられる人は、あるときにぐんと成長するのをこれまで何人も見てきました。要領よくすぐにできるようにはならないかもしれませんが、最後に一番大きく成長するのは、こつこつと努力を続けられる人です。
このまま頑張って続けていってください。」
講師からのコメントでほめることは、「良いこと」の基準を伝えることになります。
また、ほめられた人を認めることになり、周りの意識も変わります。
周りもこつこつと頑張っている人を認めるようになり、負けないように頑張ろうという気持ちになっていきます。
こつこつと頑張っていること以外にも、周りを見て他の人がやっていないことをそっとやっている人、失敗を恐れずに積極的にチャレンジし大きく成長している人、発表がうまく人前できちんと話せる人、チームを上手に引っ張っている人、いろんな人がいます。
講師がそういう人を見つけてきちんとほめて認めることで、お互いに認め合い、目標とし合う雰囲気が広がってきます。
そのためにはまず講師が一人一人を認めることが大切です。
認められる人が多くて、お互いに目標になる人が多ければ、全体の学びが加速していきます。みんなが良い意味でのライバルです。
研修の最後の発表で、ある新入社員の人が次のような発表をしたことがあります。
「同期の友達からも多くを学びました。」
これに対して、その企業の役員の方が次のような評価をされました。
「友達から多くを学んだと言ったけれども、それが本当ならすばらしいことです。」
受講生同士は、研修の中でお互いに学び合う関係がすでにできていて、それが当たり前になっています。その当たり前の事を、あらためてほめられて新鮮だったのではないでしょうか。
3. 悩み
研修中にはさまざまな悩みごとがつきものです。
受講生には生活、人間関係、性格、学習などについてさまざまな悩みや不安があります。
「どうしたのかな?なんか表情が優れないみたいだけど。」
休憩時間に、缶コーヒーを持ちながらため息をついているS君に聞いてみます。
「私、どうも焦っちゃうんですよね。M君みたいにこつこつと努力をしなければ、とは思うんですけど、すぐに答えが出ないと不安で。」
夜なかなか眠れない、同期の仲間とうまくいかない、なかなか積極的に話ができない、自分自身に自信が持てないなどなどさまざまな悩みがありますが、S君の悩みはすぐに結果が出ないと不安だ、ということのようです。
不安などの「負の感情」は研修においては百害あって一利なしです。
「どうしよう、どうしよう。」
という不安自体を考えることに意識が取られて、結局学習の邪魔をすることになります。ひどくなると「どうしよう」しか考えていない状態になります。
その不安を放置しては学習の妨げになりますから、講師として見逃すことはできません。
「どうして焦るのかな?」
「不安なんですよね。同じ学校から来てる前の先輩がすごくできる人で、比べられたら自分ができないのがよく分かるし。」
確かに、前年の同じ学校から就職してきた人はずば抜けて良くできました。
私の講師人生の中でも3本の指に入るぐらい、入社時の知識、技術力はずば抜けている人です。そういう人と比べて負けたらどうしようと考えていたら不安になるのも当たり前でしょう。
「そうか。S君はその先輩に勝てると思う?」
「いや、全然無理です。」
「でも勝ちたい?」
「勝ちたいというのとは違うんですが・・・」
「比べて負けたらどうしよう、というのはそう言うことではないのかな?」
「・・・そうかもしれません。」
「だったら、無理だと思うことに挑戦してできないから不安になってるって事かな?」
「そうみたいです。」
「それは君にとって大事なことなのかな?」
「大事ではないけど、頭から離れないんですよ。」
「じゃあ、今の君に大切な事はなんだろう?」
「・・・・今できることをM君みたいにしっかりつづけること・・・・かな。」
「そうだね、君は君なんだから誰かと比較して負けたり勝ったりって考えなくても大丈夫だよ。
同期のみんなと比べても、君は力もあるんだから、今のまま頑張れば2年でその先輩に追いつけるよ。」
「・・・・・・・がんばってみます。」
まだまだ本当に納得ができているわけではないようですが、悩みについては根気よく接する必要があります。
こうしなければだめ、ああしなければだめ、と言っていては、講師の私がまた新たな悩みを作ってしまうことになるでしょう。
根気よく会話を続け、自信を持たせる機会を作り、自分の成果に気付かせて、今の自分でいいんだ、ということに気付けば人間は変わっていくものです。
研修中には自分の力量に対する不安というのは必ず出てきます。
技術的にトップの人は一人しかいないのですから、その人に負けたらだめ、ということになれば残りの全ての人が「自分はできない人間だ。」という悩みを持つことになります。
私は研修の間に次のような言葉を繰り返すことにしています。
「研修中に他の人と自分を比べて勝った負けたと考えることには意味はありません。研修のスタート地点の知識や技術力も違うし、学ぶ内容との相性もあるでしょう。ですが、毎日きちんと努力すれば、昨日の自分には勝てることが多くなるはずです。
君たちが比べなければならないのは、昨日の自分です。昨日の自分に比べて一歩でも二歩でも進んでいたら、それでいいのです。
他の人と比べてできないとか悩んでいる暇があったら、昨日の自分に勝つために努力を続けてください。」
いろんな方法で受講生の不安を取り除く努力を続けて行くことが、研修の講師には必要なことだと思います。
◆コラム◆ 受講生を知るには
受講生のことを知るには観察とコミュニケーションが必要です。
話しかけやすい講師でいることも大切なことでしょう。
私が話をしているときや、グループワークをしているときの表情を見たり、他の人と話しているときの視線を感じたり、話す言葉や話し方、話すときの視線の動き、またコミュニケーションシートに書かれている内容などを見ることで、性格、考えていることなどが見えてきます。
観察により不安があることに気づければ、話をしやすいタイミングを作ったり、私から声をかけることもできるようになります。
受講生の悩みにはできるだけ早く気づき、問題を解決していくように心がけます。