題名は、フィリップ・K・ディックの有名なSF小説である。
おそらく、映画「ブレードランナー」の原作である、というほうがわかりやすいだろう。
昨日、コーチング関連の講演を一緒に聴きに行った親しい友人と話しているときに、「コーチの人たちっていつも人を観察、分析するような見方をしているのか?」という質問をされた。
答えはノーでもありイエスでもある。
私の場合は、コーチング、カウンセリングなどを行う際には自分の中でのスイッチを入れる。
それだけ集中していないとできないことだからだ。
スイッチを入れ、言葉に耳を澄まし、抑揚から感情の動きを察し、表情をさりげなく観察して心の動きを知る。
そして、一生懸命に考えて質問を発する。
自分の振るまいが相手に与える影響にも気を配り、一挙一動に気をつけるようになる。
だが、これを繰り返していると、スイッチを入れなくてもできるようになってくることがある。
言葉や表情からさまざまなことを感じられるようになるし、自分の振る舞いを意識するようになってくる。
コーチングやカウンセリングを知る前に比べれば、ずっと「観察・分析」的な見方をしているのは間違いない。
だが、実際には、親しい相手と接するときには、そういうことをできるだけ意識せずに、本来の自分で接していたいと思う。
コーチをしていてもカウンセラーをしていても、一人の人間であり、さまざまな感情を持ってもいる。
言いたいこともあるし、いつも格好をつけているわけにもいかない。
そして、それを受け入れてもらいたいと思う。
そういう相手と接するときには、コーチングスイッチははいっていない。
だから、先の質問への答えは「ノーでもありイエスでもある」となる。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」では、自分をアンドロイドと認識できないアンドロイドが出てくる。
重ねられるのは、私がコーチとしてあるときの自分と、本当の生の自分自身を分けて考えられなくなる、というイメージだろうか。
だが、私の場合は、コーチである自分と、素の自分自身は違う。
続けていけばだんだんと近づくことはあるかもしれないが、同じものにはなりはしないだろう。
昨日、質問を受けてそんなことを考えた。