Takanori

レベル分けグループについて

技術系の新人研修などでは、よく「レベル別のグルーピング」が行われる。
開始時、もしくは適宜テストなどによりレベル分けをして、レベル毎にグルーピングをするのだ。

新人研修などでも、お客さんから「レベル別のグルーピングをしてほしい」という依頼を受けることがある。
理由をうかがうと「みんながやる気になるから。」というような理由であることが多い。

今回はこの「レベル別のグルーピング」について考えてみたい。
「レベル別のグルーピング」を行う理由は次のようなものだろう。

1つには、グループ内部での情報交換をしやすくなることがあげられる。
似たようなレベルのメンバーがいることで、教え合ったり、一緒に考えたりしやすくなることが期待できる。

また、よりレベルの高いグループになりたいために、モチベーションが高まることも理由の1つだろう。
特に上位レベルのグループにはそのような傾向が見られることが多い。

一般的には、これらがレベル別のグルーピングを行うメリットととらえられるだろう。
では、デメリットはどんなものがあるのだろうか。
・下位レベルのグループのモチベーションが上がらないことがある。

下位レベルのグループには「どうせやっても上には行けない」という気持ちになりがちである。
上位グループの進み方が早くなることも多く、上位に上がることはなかなかむずかしいために、特にレベルの低い人が「どうせだめなんだ」と思うことが多くなる。

・評価基準が「技術スキル」のみになりがち。

上位グループにいることが「善」となり、他の要素が評価されづらくなる。
技術スキル以外に何か問題があったとしても「技術スキルがあるからいいだろう」という判断を自他共にしがちになる。

・レベルが異なるグループ間に隙間ができることがある。

上位グループと下位グループの間だけでなく、それぞれのグループ内の上位と下位でも心理的な隙間ができることがある。
技術スキルのみに従った「階級」ができてしまう、とでも言えばよいだろうか。
チーム一丸となって、という形にはなりにくい。
これらに加えて、実は、最初にメリットのように書いた「グループ内の情報交換」、「モチベーションの向上」ももう少し分析する必要がある。
「グループ内の情報交換」だが、教えることにより自分のレベルが下がることは避けたい心理が当然のように働く。
教えているようだけど親身になっては教えていない、もしくは、教えない、という状態になることがある。
それぞれのグループの中でも上位レベルのメンバーだけが話し合っている、というシーンができたりする。
結果として、チームの成果、という発想が芽生えないために、せっかくの学び合いのチャンスをなくしてしまうことになる。

「モチベーションの向上」は見られるのだが、それは「下のレベルに落ちたくない」「上のレベルに行かないと不利だ」という心理がベースのモチベーションになりがちである。
これは、例えば、頭に銃を突きつけられて「やらないと撃つぞ」と言われているのと同じ種類の外的モチベーションになる。
「やりたい」「できるようになりたい」という内的モチベーションではないために、レベル別のグループ、というモチベーションの源がなくなった段階でモチベーションもなくなってしまう。
そのため、研修後のモチベーションの継続が難しくなる可能性が高い。
新人研修で目指す成果のうち、「チームで働くスキル」の習得というのは大きなウェイトを占めると私は考えている。

チームで働くには、メンバーのよいところを認め合う、という要素が欠かせないのだが、レベル分けをしたグループによる研修では評価基準が技術スキルに偏りやすく、技術スキルは高くないがリーダーシップが高い、というような評価がなされにくくなる。
ムードメーカーと呼ばれる人は基本となるコミュニケーションスキルが高いことが多いが、このようなスキルも評価対象になりにくい。
実際のところ、技術スキルは業務で触れていく中で自然に伸びていくが、チームで働く意識を現場で身につけ訓練することはなかなか難しい。
だからこそ、新人研修ではチームで働くスキルを身につけさせる必要があると考えている。
これらの理由から、私が新人研修の講師をするときには「レベル別のグルーピング」は行っていない。
レベル別のグルーピングを行うことで、新人研修で身につけてもらうべきチームで働くスキルを身につけてもらうことや、研修終了後のモチベーションにつなげることが難しくなるからだ。
レベル別のグルーピング以外に、モチベーションを上げて技術スキルを高め、加えてチームで働くスキルを身につけてもらう方法を使えばよい。

その方法とは、簡単にいえば、個の成果からチームの成果に評価基準を切り替えることである。

具体的な進め方については、また後ほど書いてみようと思う。

Takanori

健康大事

2016年11月の後半から一ヶ月半ほど、頭痛に悩まされてきた。

後頭部の刺すような痛み、前頭部の重い痛みなどいろいろな痛みが出て、ひどいときには身体の向きを変えることさえためらわれた。

下に落ちているものを拾うためにかがめば痛むし、寝ている状態から立ち上がっても痛むし、逆に横になるときにも痛む。
笑っても、トイレで力んでも痛むし、咳やくしゃみなど論外である。

結局、こんな状態で1ヶ月半ほど過ごした。
痛み始めた当初、治したいので病院に行ってCTを取るところからはじめた。
頭蓋骨の中の問題だと、下手すると死んでしまうのでまずは調べてもらったのだが、特に異常はない、とのことだった。

次に、整体に行って首の周りを見てもらったのだが、施術してもらっても、状態に変化は感じられるものの、痛みがなくなるわけではなかった。

そんな中でも仕事の打ち合わせなどに行っていたのだが、あるとき打ち合わせに参加された方から「顎関節症なのではないか?」という指摘をいただいた。
その方の奥様が、やはり頭痛などで悩んでいて、いろいろ調べた末に顎関節症が原因であると分かった、とのことだった。

「顎関節症ではないか」という指摘をいただいたときに、なるほど、と思った。

なぜかはよく分からないのだが、頭痛が起きている場所が問題ではない、それ以外の部分に問題があるのだ、と強く感じられたのだ。

それからは、歯医者に行ってかみ合わせを見てもらったり、アレクサンダー・テクニークという身体の使い方を調べたり、顎関節症の矯正、身体全体の矯正などに行ったり、普段の姿勢をよくすることに心がけたり、関連すると思われる部位のストレッチを心がけたりした。

また、プチ断食を行って食事の量を減らし、体重も5Kgほど減らした。
どれが功を奏したのかは分からないが、今年に入って、急に楽になる日が出てきた。
それまでは痛みが怖くて歩く程度の運動もしたくなかったのだが、1月3日には歩く気になって、買い物のついでに1時間半ほど歩いてみた。

すると、なにかモードが変わったように楽になった。
まだ、少し痛みが出るときはあるのだが、今までとは全く違う。
本当に治ったのかどうかはしばらく様子を見なければわからないが、なんとなく大丈夫な気がする。
頭痛が原因で、1ヶ月半ほど自分の身体と習慣に向き合った結果、姿勢、食生活、習慣などなど、気をつけなければならないことがたくさん見えてきた。
ダイエットは続けなければならないし、正しい姿勢を維持するための筋力も鍛えなければならない。
食生活、運動習慣も変える必要がある。
ストレッチの習慣化も大切だろう。
頭痛はつらい経験だったが、自分を見つめ直すいいきっかけになった。

健康オタクにはならないと思うが、自分自身の身体を見つめる機会を増やしていこうと思う。
そして、自分自身の身体を維持するためのトレーニングも意識的に行い習慣化していきたい。

Takanori

たのしい、と、うれしい

これまで「研修では学ぶことが楽しくなければならない」という表現を何度も使ってきた。

このこと自体は問題はないと思う。

辛いことを我慢しながらやっていても、ろくな学びはできないのは考えなくても分かるだろう。

現実には、勉強はつらいもの、練習は耐えるもの、みたいな考え方がまだ世の中にはたくさんあるが、次第に淘汰されていくに違いない。
昨年から「勉強会(仮称)」というのを開催している。

その中で、学ぶには「楽しい」という感情が大切、ということを伝えるためにいくつかのグループワークを行った。
私は「楽しい」というキーワードが出てくればよいと考えていたのだが、「うれしい」に対する考察も行われた。

その結果「楽しい」は過程が「楽しい」であり、「うれしい」は結果的にできたら「うれしい」という分析がなされた。

それまでは私の中で「楽しい」でひとくくりにしていたのだが、勉強会のグループワークの結果によって分かりやすく整理された。
私にとってとても大きな成果であった。
講師として研修を進めていると、それこそ脂汗を流しながら苦労して課題に取り組むシーンがよく見られるようになる。
その課程は「楽しい」とはほど遠い。
だが、できたらきっとすばらしく「うれしい」だろう。

なぜそう思うのかといえば「できるようになりたいから」だ。
だから必死に苦労しながら取り組むのだ。
つまり、研修はこうやって作ればよい。

・楽しいことをする。
・楽しいことの中に学びを含める。
・楽しいけどできない経験をさせる。
・できないことをできるようになりたいと思わせる。
・できるようになるために努力させる。
・努力の結果できたことを認識させる。
・できないことを認識させ、できるようになりたいと思わせる。
以下は繰り返しである。

途中の過程にも「楽しい」を入れれば、「楽しい」と「うれしい」の連続だ。
「うれしい」がより強くなる「悔しい」も混じれば、さらによい。
さらに具体的に言えば、

・学んでもらいたいことを分析して
・楽しめる課題にし、
・それを楽しめるように導入して実施し、
・成長を実感させて、
・課題を自分達で見つけられる

ようにしていけばよい。
勉強会(仮称)では、この流れの中の「分析」と「楽しめるような導入」というのが今の課題になっている。
「分析」はロジカルシンキングがベースではあるが、アイデアも大切である。
「楽しめるような導入」というのは、場を把握した上で、感情に働きかけるようなスピーチの力が必要になる。
これまで何気なくやっていたことを、このように明確に分析できるようになったことは、私にとっての勉強会(仮称)の成果である。

「楽しい」と「うれしい」はその象徴的なことなのだ。

さて、その勉強会(仮称)であるが、そろそろまともな名前をつけてあげたい。
次の勉強会(仮称)で提案してみようかな。

Takanori

「努力は夢中に勝てない」

ある方の Facebook のタイムラインに、表題の言葉が書かれた額の画像が流れていた。

「努力は夢中に勝てない」
元陸上選手の為末さんの言葉だそうだ。

この言葉はすごい。

人を育てる我々のような人間が創りださなければならない環境を、ひと言で表してしまっている。
私はよく「講師にできるのは環境を創ることだけ」という言い方をしている。

受講者の代わりには学べないし、丁寧に説明すれば必ず理解してもらえるわけでもない。
学んでもらうため、理解してもらうためには、受講者自身が考えて理解しなければならずそれ以外の方法はない。
より多くを理解してもらうために必要なのは「学びたくなる環境」であり、それが「夢中になれる環境」であれば、さらによい。
ひたすら課題をこなすことを求めているような学びの場では、課題をこなすことが目的となっていく。
努力を強いても、人は成長するだろう。
みんなが努力もしないでそっぽを向いているよりはよっぽどましだ。
だが、強いられた努力が楽しくなければ、研修が終わることで安心し、研修が終わってからの継続は望めないし、研修中の自主的な学びにもつながりにくい。
夢中になれる環境かどうかを見分けるのは簡単である。
受講者が「課題をやりたい」と思うか「課題をやらなければならない」と思うか聞いてみればいい。
「やりたい」と言えば楽しいのだろうし、「やらなければならならない」と言うのなら、努力を強いているのだろう。
夢中になれる研修では、研修を終わりたくない、もっと続けたい、という声が出てくる。
努力を強いられる研修では、やっと終わった、という感想になる。
「やりたい」と思うためには、その課題に対して、取り組むモチベーションがなければならない。
課題に取り組むことが「自分の役に立つ」というのももちろんモチベーションになるが、「いやだけど役に立つから」というのでは「夢中」にはならない。
役に立つ、ではなくて、楽しい、嬉しい、などの感情が元になったモチベーションが「夢中」につながる。
「夢中」であれば学びが自主的になり、幅も広がり、深さも深くなる。
そのような学びは、研修が終わっても続き、結果的に定着する可能性も高くなる。
研修において「定着」は大きなテーマである、というよりも、定着しない研修には意味がない、ぐらいに大切である。
定着のためには「夢中」になれる学びの場が一つの答なのだろう。
いつまでも学び続けたい、という気持ちで終われる研修のためには、夢中になれるモチベーションが大切だ。
夢中になれるモチベーションのためには、楽しい、嬉しい、という気持ちが欠かせない。
人は遊びの時には夢中になる。
趣味に没頭してるときはみんな夢中だろう。

だから、学びが遊びになればいい。

私はそう考える。

「努力は夢中に勝てない」のだから。

Takanori

コミュニティのありかた

三郷ミニラグビー交流会での自律分散について一つ前の記事に書いた。

今回はまた三郷ミニラグビー交流会に関連しての「コミュニティ」の話である。

何年か前までは、三郷ミニラグビー交流会というのは、私の所属するラグビースクールが運営し、各スクールがお客さんとしてきてもらう、という雰囲気だった。

もちろん、来ていただくスクールさんに気持ちよく参加してもらうための工夫は考えているのだが、なんとなく、ホストとゲスト、という関係性を感じられた。

いわば、私が属するラグビースクールというコミュニティが、ゲストを迎えている感じであった。

だが、ここ数年、変化が感じられる。

参加してくれる各スクールの方から、できることがあれば手伝いたい、というオファーをいただくことが増えてきているのだ。
実際にいろいろとお手伝いをしていただいていることも出てきている。

もちろんホストとして至らないことがあるからではあろうが、そのような場合、今までは「クレーム」とか「要望」という形で上がってきていたが、最近はそれが減っている。

そうなってくるとどうなるかというと、三郷ミニラグビー交流会自体が一つのコミュニティになってくる感じがする。
参加する多くの方が運営する意識を持ってくれることで、全体が一つのコミュニティになるのだ。

コミュニティができると、それぞれが「三郷ミニラグビー交流会の成功」という目的を持ってくれるために、多少の不便があってもそれを受け入れてくれ、改善のための工夫をしてくれたりする。

必要な事は、みんなで一つの目的を、なのだ。

それが伝わって共有されれば、全体がコミュニティになれる。

三郷ミニラグビー交流会というラグビースクールのイベントだが、組織運営、組織作りのさまざまなヒントがある。
そこからどれだけ多くのことを学べるか。

どのようにコミュニティを充実させていくのかは、これから先の課題である。
今のところ、現実的にどのように進めていくかの基本的な方針は分かるが、より具体的で効果的なアプローチはまだまだである。

来年に向けてさらなる思考と工夫をもって、より多くのことを学びたい。

Takanori

自律分散組織のすごみ

今年も三郷ミニラグビー交流会が終わった。

私の所属するラグビースクール主体で運営している、近隣県からの参加も含め26試合が開催される大規模なラグビーの交流会である。

昨年(2015年)のラグビー・ワールドカップの影響か、今年は人数が増えたスクールが多く、チームの数で2割5分増えており、昨年の1日で実施する124ゲームが154ゲームに増えた。

事前の申告を元に計算した参加者は子供、大人全て合わせて3000名に迫る勢いで、同時に13グラウンドでゲームが行われる、まさにラグビー漬けの一日となった。

三郷ミニラグビー交流会全景

当然ではあるが土地の面積が増えるわけではないので、人口密度は高くなり、今までの三郷ミニとはずいぶん雰囲気が変わったのを感じた。

人数も、車両台数も、ゲーム数も、今までとはだいぶ違った今回の交流会だったので、始まるまではいろいろと心配なことが多かった。

私自身が交流会運営のメイン担当ではないのだが、スクール内で古株になっていること、以前はメイン担当もやっていたことなどもあり、ある程度の提案や指示などをさせてもらっている。
しかし、結局のところ、準備段階を含め、私が実際に行ったことは、私の担当である組み合わせ作成を念入りに行い、クレームが起こりそうなことに対して少し事前対処したぐらいで、逆に細かい指示を減らしていった。

結果はどうだったかといえば、いつも以上に問題なくスムーズに進み、終わった。

もちろん、ひとつひとつを見ていけば、それぞれの部分はたいへんなことになっていたのは間違いない。
駐車場の采配、ゲーム前の集合、交流会前のグラウンド設営、水の手配などそれぞれの作業量は増えているし、細かいハプニングもいくつかあった。

だが、駐車場の采配、グラウンド設営、集合管理など他のスクールさんの協力もいただきながら、それぞれの担当部署で工夫をしながら乗り切り、全体が無事に終了した。

以前に自律分散について書いたことがある。
三郷ミニラグビー交流会は、自律分散によって運営され、組織の運用という面から見ても素晴らしい見本となっている、という内容である。
もちろん今年も自律分散は素晴らしく機能した。

今年気付いた1つの変化は、全体の進行状況が昨年より見えなくなったことだった。

トラブルがない、もしくはその報告がないことが一つの原因である。
そして、もう一つは、何かが完了したときも「ぜんぶやっといたから」でおしまいで、その内容まで踏み込まないことがもう一つの原因だろう。
もともとそのような作業に対してのチェックリストも持っていないし、どうやるかという予定を聞いていてもそれのチェックももちろんしない。

任せた人が大丈夫というのならば大丈夫なのだ。
予定と違うことがあったとしても、担当した人がそれが必要だと考えたなら、必要なことだったはずである。
そこを信頼しないで、自律分散などできようがない。

毎年いっぱいいっぱいで回していたような気がする三郷ミニ交流会が、突然3割増しになっても、自律分散は機能した。
それも、これまでのように、ではなく、これまで以上に。

繰り返す中で、それぞれの担当のスキルも向上していく。

組織を、人を育てる上で、自律分散の組織は本当に強い。
今年はあらためて、自律分散のすごみを感じさせられた三郷ミニラグビー交流会であった。

ちなみに、自律分散組織がきちんと機能する上で欠かせないものが一つある。
それは組織全体に共有される目標である。

三郷ミニラグビー交流会の目標は、たぶんこんなところだろう。

「子供たちが1日楽しめる交流会を無事に運営し、早く帰ること」

言葉にしているわけではないが、これが自然と共有されているところが、私の所属するラグビースクールのふくじゅ草のいいところなんだろう。

三郷ミニラグビー交流会に関してはもう一つ書きたいことがあるが、それは次の投稿で。

Takanori

ハードディスク障害の顛末

2日ほど、パソコンが起動しなくなって対応をしていた。
パソコンのトラブルというのは、まぁ、いろいろあるのだが、起動してくれないことにはなにもできないので、データを失うことの次ぐらいに起動しないことは大問題である。

結果的には解決したのであるが、どうせなら次に同じようなことがあった場合に対応できるように、少し記録をまとめておこうと思う。

[障害発生]

Windows10にアップデートするかどうか迷いながら、まぁ、起動ディスクのバックアップを取ってから考えようとして、システムがはいったディスクと同じサイズの安価な3TBのハードディスクを入手し、バックアップを取ることにした。
Windowsがはいったディスクのバックアップを取るのに、Windows7のバックアップは使えない。
2TBを越えるハードディスクには対応していないからだ。

そこで、これまで通り、Acronis TRUE Image というソフトを使ってシステムディスクの「クローン」を作ることにした。
いざというときにも、そのディスクと入れ替えればシステムが起動する「はず」であるからだ。

すでに Acronis TRUE Image はインストールしてあったので、購入したディスクを接続し、クローンを作る作業を始めた。
何度か再起動をしながらクローンを作ってくれるので、その間はパソコンを離れて他の作業をしていた。

何度目かの確認時に、へんなメッセージが出て停止していた。
原因が分からず、できる操作を一通りしたあとに、やむなく、電源を落としてしまった。

あとから振り返れば、この時点で起きていたことは、システムディスクのクローニングに関係のないUSBの外付けディスクがつながっていることが障害になっていたようなのだが、そこでは気付かなかった。

クローニングなどの操作を行うときには、関係のないドライブなどはつながない、というのが原則なのであるが、その原則を忘れてしまったのが原因だ。
恐らくではあるが、これまでの実績から Acronis TRUE Image そのものの障害とは思えない。

そして、電源を投入したのであるが、起動ディスクが見つからない、というようなメッセージが表示され起動しなくなってしまった。

教訓は「原則を大切にしよう」である。
[調査]

このような場合に最初に確認しなければならないのが、データが保存されているかどうかであるが、パソコンが起動できないと当然ながら確認作業もできない。
他のパソコンにつないでみる、というのも1つの方法であるが、今後の作業のことも考えて古いハードディスク(1TB)を引っ張り出してきて、それにWindows7をインストールした。
そのハードディスクから起動し(これはなんなく成功)、障害を起こしたオリジナルのハードディスクと、クローンした先のハードディスクの中身を確認し、データが残されている(だろう)ことを確かめられた。
オリジナルにも、クローンにもデータがあるので、とりあえずクローンのハードディスクをパソコンに接続して起動を試してみたが、症状は同じだった。
どちらも起動できない。

これまで起動ができなくなったときには、MBR(マスターブートレコード)を書き直す、というのが基本的なテクニックだったが、今回はその方法を使えない。

なぜならば、3TBを越えるボリュームにWindowsをインストールするためには、UEFIという仕組みを使って起動しなければならないからだ。

問題は、私がUEFIの仕組みをよく知らないことであった。

UEFIはマザーボードに載っているプログラムと、ディスクのUEFI関連の情報が関連しながら動作することになっているようで、単純にMBRを上書きすればよい、という仕組みではない(というのを、今回いろいろと調べる中で初めて知った)。

調べてみると、回復用のコンソールを使う方法がいろいろ見つかったので、Windows7のインストールディスクを引っ張り出してきたが、回復コンソールまでたどり着けないことがあり、Windows8のインストールディスクを使うことにした。

教訓は「ちゃんと理解して使おう」である。
[対応]
回復コンソール(コマンドプロンプト)が起動できたら使う可能性があるコマンドはおよそ次の通りである。

diskpart
bcdedit
bootsect
bootrec

UEFIではEFIシステムパーティションにファイルが存在し、その中の \EFI\Microsoft\Boot フォルダに BCD というファイルがあり、そのファイルがおかしくなっていると起動できないらしい。

今回はパーティションが破壊されているわけでもなく、BCDファイルのような設定ファイルが壊れているだけだったと考えられたので、これらのコマンドを使いながらBCDファイルなどの復元を試みた。
コマンドの詳細なオプションなどは検索すれば出てくるのでそれを参照して欲しいが、とりあえず効果があったと思えるコマンドは次のようなものだった。

bcdboot c:\windows /v /s s: /l ja-JP /f UEFI

このコマンドを実行するためには、diskpart コマンドも使わなければならない。

なお、これらの対応は、クローン先のハードディスクに対して行った。
復旧できる方法を見つけたらオリジナルのハードディスクに同じ方法を試すためである。

だが、いろいろ調べて、何度やっても起動できない。

一度は、他のツールを使ってうっかりMBRを書き換えるような操作をしてしまい、上記のコマンドを使って復旧する必要があった。
UEFIではMBRを使わないので、へんな操作をすると事態をより複雑にしてしまう。

コマンドをいろいろなパラメータで実行してみたが、正しいコマンドかどうか自信の持てないときのほうが多かった。
UEFIの仕組みをきちんと理解していないからだ。
試行錯誤をしたのだが、ここでの試行錯誤が問題をさらに見つけづらくしていたかもしれない。

ここでも教訓は「ちゃんと理解して使おう」である。
[復旧]
いろいろ試してみたし、何度かUEFI(BIOS)を起動して起動ドライブの設定などを試していたのだが、その中に1つ思い込みがあった。
UEFIで起動しているはず(実際にGPTフォーマットになっている)なのだから、起動モードは「UEFI」である、というものである。

そんなことで起動モードを「UEFI」にしていたのだが、オプションの説明を見てもそれっぽいことが書いてあったのでまったく疑わなかったのだ。

だが、あるサイトの記述を参考に「非UEFI」にして起動してみた。

そうしたら、すんなりと起動してしまった。
あまりにもあっけなく起動したので、笑ってしまったぐらいだ。

UEFI の環境では、マザーボードとディスクが協調して動くので、これらの設定が合っていないと起動ドライブとして認識さえしてくれない。

もちろん、障害が起きたときのままでは起動できなかったので、コマンドを使ってディスクの設定を変えたことは意味があったはずなのだが、途中から起動できない理由が起動モードの設定が合っていなかったことになっていたらしい。
教訓は「思い込みは敵である、正しいはずというのは正しいとは言えない」である。
かくして、元通りの環境を手に入れることができ、データのバックアップも取れ、いざとなったらオリジナルのハードディスクに手を入れないで Windows 7 を新規インストールできるようにと買った 4TB のディスクが手元に残った。
UEFIの仕組みもまぁまぁ理解できたし、復旧用のツールも使えるようになった。

そして、対策をしているうちに、Windows 10 の無料アップデートの期間が終了してしまった。
アップデートするかどうかで悩まなくてよくなったのはいいのだが・・・なんか損をした気分ではある。

最後の教訓は「余裕を持って行動しよう」である。

Takanori

2016年度の新人研修を終えて

2016年度の新人研修の報告書を書き上げ、まだ若干の資料整理や提出物などが残ってはいるが、長かった新人研修が終了した。

今年も、講師育成から新人研修に携わることになり、1月中頃から6月初めまで、という長期戦であった。

講師育成では、講師を育てる講師の育成の役割を持つことになり、「先生の先生の先生」という自分で言っていてもこんがらがりそうな仕事をすることになった。

研修を実施中は受講者への影響を及ぼさないようにするため、ブログなどへの投稿は基本的に行っていないので、久しぶりの投稿になるが、今年の新人研修について振り返ってみたい。
●講師育成について。

講師育成というのは、私が行っている研修の中でももっとも難しいものの一つである。
対象が社会人経験を積んで自分の考えをしっかり持っている方であること、伝えるべき内容が複雑で多いこと、結果を出すまでの期間が限られていること、などが難しい理由であるが、これらを乗り越えるためには最新の注意と、錬ったカリキュラムが欠かせない。

昨年、一昨年と講師育成に取り組む中で、私のスキルを棚卸しし、人に伝えられる形に整理して、学べる形にしてきたことを、なんとか、直接講師育成に携わる方に伝えようとしたのだが、結果から言うと難しかった。

一部は講師の講師に伝えられたとは思うのだが、新人研修の講師になる講師候補の方に十分なことができたか、というとやはり足りなかったと言わざるを得ない。

理由はいくつかある。

一つは、圧倒的に時間が足りなかったことである。

先に「細心の注意」というように書いたのだが、その内容が実際にはそう簡単に伝えられるようなことではなかった。
観察のスキル、心理的な反応に対する知識と経験、メッセージを伝える方法など、それぞれがとても複雑なことだが、細心の注意、というのはそれらの複雑なものが絡み合っているものだからだ。

「細心の注意」を分解して1つ1つ訓練しながら学ぶには、やはり時間が圧倒的に足りなかった。

二つめは、私が昨年までに実施したカリキュラムの意図をきちんと伝えられなかったことだ。

「錬ったカリキュラム」についての話になるが、コメントの質やインストラクションの方法など、私が実施した内容をそのまま実施することは難しいことと、講師の講師の方がやりたいこと、やれること、などがあり、私が実施したカリキュラムの流れの実施ではなく、講師候補の方に本質的な部分を伝え切れていなかったように感じる。

3分間スピーチのような簡単なカリキュラムでさえ、テーマの設定の方法、コメントについて注意すべきことなどを整理して伝え、納得してもらうことはできなかった。
結論として、講師育成に関しては、私が直接担当させてもらうならば2ヶ月から2ヶ月半ほどあれば、最低限必要なことは伝えられるだろうと思う。
最低限の必要なこととは、テキストを読み解いて意図を考えカリキュラムを組み立てる力、講師として前に立って話す力、「受講者のために」という意識、などである。

だが、講師育成の講師を2週間で育てることは難しい。
必要な事を伝えるためのスキルを整理し、それを伝える手段を考えたときに、あまりにも短いのだ。

今年の講師育成では直前でそのような指示をもらったため、とりあえずはじめてはみたものの、やはり足りない時間には勝てなかった。
●新人研修

今年は複数社が混在する会場での実施であった。
これまで、新人研修では一社の新入社員だけが集まっている環境でしか研修を行っておらず、複数社混在の環境での研修は初めての経験であった。

会社毎に新入社員に傾向があり、これまでよりは幅広い対象だったこと、会社のイベントで一部の受講者が1日抜けることがあるなど、多少勝手が違った部分はあったが、結果的に昨年までの研修と同じような雰囲気になってくれた。
複数の会社であるという要素も、それなりにうまく盛り込めたと思う。

会社の壁がどれぐらいあるものか心配していたのだが、研修の最初から意識して壁をなくすように心がけた結果、それぞれの会社の個性がよい方向に生きたまま、会社の壁を越えた交流が生まれ、受講者が仲良くなってくれ、グループワークを通してよい学びの場となった。

一社ではないので、企業の担当者と頻繁に情報交換を行い方針を決める、ということはできなかったが、伝えたいことは受講者の方々に受け取ってもらえたようである。

全体としては、ほぼ想定していた負荷をかけながら伝えたい内容を盛り込むことができたのではないかと思う。

もちろん、課題もいくつかあり、振り返ると「もう少しこうしていたら」という反省がいくつか思い浮かぶ。
中には、私の判断ミスや、手が回らなかったことが理由であるものもあり、それらは素直に反省しなければならない。

特に、進み方の遅い人に対するアプローチの方法や、最初に乗り遅れた感じのある人へのアプローチには、反省点が多い。
進み方が遅いことには、いろんな理由があり、講師を含む周りへの質問ができるかどうか、するかどうかという個性も関係してくる。
原因や個性、考え方を見極めて適切な声をかけつつ、受講者自らの行動を妨げない、というのはなかなかむずかしい。

これらの対応の精度をあげることは、これからも課題になっていくだろう。

とはいえ、半年弱の新人研修関係のプロジェクトを終了し、とりあえずは一安心である。
少し休みを取りつつ、次の動きを考えていきたい。

Takanori

私にしかできない?

講師育成研修でよく言うセリフの1つに「私の真似をしないでください。」というのがある。
私が実施しているグループワークを体験すると、自分でも試したくなるようで、グループワークをハンドリングする練習をせずに研修の現場で実施する方が出てくる。
それは危険だよ、と戒めるためである。

私ができることを見て「長谷川さんは長い間やっていたからできるんだ」と言われることもある。

講師仲間から「別格だ」と言っていただけることもある。
こう言うと、私は長い時間をかけてとんでもないことができるようになっていると思われるかもしれないが、実は研修の仕事を始めた最初からこのようなことをしている。
もちろん、最初よりは今の方が上手にはなっているが、決して研修の仕事を長年行わなければできないことをしているわけではない。

私が最初からある程度認められるようなことができた原因は確かにある。

ラグビースクールにおけるコーチングに関する知識があったこと。
技術的なレベルがそれなりのものであったこと。
話すスキルがある程度はあったこと。

これらがその原因である。

だが、技術レベルは普通に開発の仕事をしている人が持っているレベルと大差はない。
話すスキルも、クライアントと会話しつつ要件定義などができるようであれば問題がないレベルである。
コーチングに関する知識も、決して理解していると言えるレベルではなく、あくまでも「知っている」程度であった。

それらを元に、毎日必死で考えて準備をし、実施して観察をし、結果に対して自分でのフィードバックを続けたことでできるようになったのだ。
そしてその中で、コーチングやグループワークに対する理解も進んだ。
こう考えていくと、きちんと学びさえすれば誰でもできるようになるはずのことである。
私ができるようになった理由が実はもう一つある。

それは「逃げるチャンスがなかった」ことである。
ろくに扱えないコーチングとグループワークにしか頼れなかったぐらい追い詰められており、それから逃げる方法がなかったのだ。
言い換えればやり続けることを強制されていたのだ。

実際の原因は「逃げられなかった」だが、これは「チャレンジし続けた」とも言える。
だから、私と同じことができるようになるためには、コーチングやグループワークを学び、伝えるべき知識を持ち、話すスキルを高めた上で、真摯なチャレンジを続ければよい、ということになる。

決して私にしかできないことではないし、長い時間をかけなければできないことでもない。
コーチングとグループワークの力を理解した後は、それをより磨くために時間を使ってきた。
理論を学び直し、実践的な訓練をし、よりよくできるように工夫をし続けてきた。
その中で、自分の経験や知識を体系化し、人に伝えられるようになってきた。
私のしていることを理解できない人は「長谷川だから」で片付けようとする。

それは可能性を捨てることで、とてももったいないことだな、と思いながら聞いている。
理解しようとしない人に伝えることは難しい。

私がしているのと同じようなことをするのは、たいへんかもしれないが、難しいことではない。
私が行っていることを表現するための方法論はすでにある。

それを他の多くの人に伝えていき、訓練の場を作っていきたい。
それができていないから、タイトルのような言葉を聞くことになってしまう。
「長谷川さんだからできる」

この言葉は、私の力不足を認識させる言葉でしかない。

Takanori

やりたいこと

私は教育に携わっている。
主として研修講師として活動し、ブログや書籍などによる情報発信、さまざまな機会を通じて人材育成に努め、また、そのための人材の育成に取り組んでいる。

そんな私の「やりたいこと」は、最終的に「人を育てる文化を日本の企業や学校や家庭に根付かせること」である。
そのためには、ただ生きるために言われたとおりの形で講師をするのではなく、自分の信じる形での研修を行い、成果を出すと共にその良さを知ってもらうことが重要である。

私の信じる形の研修や教育の形とは、自主性、考える力、コミュニケーションをベースとして自ら学ぶ形である。
これまで多くのシーンでその効果を見せようと努力してきた会社がある。
これまでもいろいろお世話になったし、一時期は「教えないで教える」を目標として掲げてくれていたこともあったので、なんとか私の知識や経験を役立ててもらおうと思って全力で取り組んできたつもりである。

だが、残念なことに、私のやりたいことや目的は伝わっていなかったようである。
おそらく効果は伝わっているのだが、ただ単に「長谷川だからできたこと」でしかなく、その理由やベースとなる考え方は伝わっていなかったのだろう。
私に旧来の研修の形を求めることは、私にとっても、求める方にとっても意味がない。
私にとっては、そのようなことを求められることは、足踏みにつながり、先のことを考えると時間がもったいないと考えざるを得ない。

このようなことを考えると、仕事がなくなる心配をしたくなるところであるが、実際には現時点でもいくつかオファーをいただいており、それらを断りつつ仁義を通してきた。
また、私の「やりたいこと」に直接の興味を持ってくれている会社も多い。
カリキュラムもお仕着せではなく、任せてくれると言ってくれるところもある。
講師育成という特殊な研修においても成果を上げられるスキルを持っていることもプラスに作用することだろう。

だから、幸いなことに、少なくとも新人研修の期間においては仕事を失う心配はあまりない。
旧来の「丁寧に教える教育」は近いうちに崩壊する。
参加型であり、チームによる学習であり、全て教えるのではなく教えないで考えさせる教育に必ずなる。

考えさせる教育を行うためにはそのような教育を行える人を育てなければならないが、どうしても時間はかかる。
グループワークを扱うためにも訓練が必要であるし、課題を考えるためにも訓練が必要である。
だらだら話さないようにするための訓練も必要であるし、観察する力、気付く力も身につけなければならない。
心理学についての素養も欲しいし、できればカウンセリングレベルの傾聴力も欲しいところである。
そして、教えるべき内容に関しての深いレベルの知識も当然必要となる。

時間はかかるがそれらの育成を行えば、教育の流れの転換が顕在化したときには非常な強みを発揮できるはずだ。
だが、旧来の教育の形にこだわっていたら、顕在化のタイミングでおいていかれるしかなくなる。
研修の品質を、企業の担当者が知っている研修を行ったかどうかで計っているようであっては、先の発展は見込めない。
担当者がそのような観点で満足するということは、教育に対する新しい価値を提供できていない、ということでしかない。

受講者の「成長できた」という気持ちが強い研修は良い研修である。
そしてそれは受講者の満足度で表されるものである。
企業の担当者が知っていることをなぞれたかどうかで計られるものではない。
今年は、私自身、大きな転換を図る年になるかもしれない。

自ら参加者を集め、会場の手配をし、協力者を集めて、理想の教育を形にしていくタイミングなのかもしれない。
IT系の新人研修をターゲットとすれば、現時点で想定できるリソースでは100人ほどが限界だろうが、新人研修を有効に活かすための受け入れ側の研修をセットで実施することも可能だろう。

しっかり考え、いろいろな方の力をお借りしながらこれから先を決めて行きたい。