Archive for 2012年7月22日

Takanori

手を抜く

私の研修は手抜きである。
少なくとも、見学に来た人から見ればそう見えるだろう。

朝のコミュニケーションシートの対応以外は、いつ来ても座ってにやにやしているか、うろうろ歩き回っているか、受講生と雑談しているか、である。

研修室にいないことさえある。

見回って、悩んでいる人の後ろで立ち止まっていたと思えば、なにもせずにまた歩き始めたりする。

しかし、受講生はずっと「なにか」をしている。

そこに講師がいるかいないかは「彼らにはほとんど関係ないらしい。

どうしても質問しなければならないことができた場合に、やっと思いだし、どこにいるのか探すような状態である。

座学も極力少なくする。
受講生は、私が座学するのを嫌いだと思っている。

結果として、話している時間はとても短くて、講師として仕事をしているようには見えない。
どう見ても手抜きだ。

だが、受講生の動きは座学の多い普通の研修よりは間違いなく良い。
自分達で問題を見つけ、解決していく。
休め、と言っても休んでくれないぐらいに集中して作業をしている。

これは、講師が何もしないからである。

しかし、講師が何もしてくれないから仕方なく、ではない。
課題は、私が出したものである。その課題に必死に取り組んでいる。
しかたなく、であれば私の出した課題に必死に取り組むことはないだろう。

受講生はすでに知っている。

教えてもらうだけでは学べないことを。
私の出した課題をやり切れば、必ず何かを学べることを。

この二つを信じてもらえれば、課題を通して受講生と対話ができる。

うろうろしているとき、私は受講生を観察している。にこにこしながら見ているときには、同時に声を聞いている。
誰が悩んでいるかを把握し、一人一人の行動を分析している。

座学を好きでないのは間違いないが、たくさん話して疲れるからではない。
効果の薄い、密度の低い時間になることが多いから好きではない。

作業中に手が止まれば声をかけるが、動いていれば心配はない。まだ悩み始めて30分である。半日ぐらいは放っておけばよい。

困っている人にこちらから手をさしのべれば、努力する、考えるチャンスを奪ってしまう。

困って来た時に与えるのは、答えではなく、できるだけ短いヒントだ。
毎度答えを教えては、甘えてしまうし、見つける喜びを奪ってしまう。
悔しがらせる目的以外で、答えは教えてはいけない。

つまり、よっぽど困った人に少しだけヒントを与えることになる。

講師をしていると教えたくなる。
ほら、知ってるよ、と自慢したくなる。
でも、講師として、してはいけないことである。

教えることを我慢し、手抜きでも学べる課題を考えることが、講師の仕事である。

研修会場では手を抜こう。
手を抜けるだけの準備をきちんとしよう。

それが、自律的な学びを引き出すことになるのだから。

Takanori

ナミダマネジメント

私が研修において注意していることの一つに「ナミダ管理」がある。

私は、ナミダもろい。

本を読んでも、映画を見ても、芝居を見ても、ドラマでも、漫画でも、とにかく泣けてしまう(もちろんそういう内容であれば、だが)。

そんな私なので、研修中に遭遇するさまざまなシーンで、ナミダが出そうになることがよくある。

悪いことだとは思わないのだが、45歳を超えたオジサンとしては、あまりメソメソするのは格好悪いので、やはりナミダ管理は重要だ。

研修において、もっとも危険なのは最後の挨拶だ。

以前、最後の挨拶が終わって、受講生から言葉をもらっているときに、その受講生が目の前で大泣きを始めたことがある。私もつられて大泣きである。
マネジメント大失敗である。

また、ある時には、最後に花束をいただいたのだが、泣きながら渡してくれるのも反則である。そのときも涙ぐんでしまった。
これも失敗である。

なので、最近は工夫をしている。
まず、受講生を泣かさないことが一番である。

だから、最後の挨拶は、楽しく面白く、が基本だ。

涙ぐむ人もいるが、見ても見ぬ振りである。
一人一人にコメントをするなど、もってのほかである。さまざまなフラッシュバックにより、双方とも涙腺が緩むのは必至だ。
ナミダリスクマネジメントの観点からはしてはならない。
だが、事情を知っている(私を泣かせようとしている)研修担当者が「一人ずつコメントをお願いします。」などと言うことがあるので油断は禁物である。

他にも、頑張って課題ができたときの顔を見ることも危ないが、これはコメントせずにガッツポーズでごまかすこともできるので、対応は難しくない。
ガッツポーズの後で、物影でナミダを拭けばすむ。

だが、今年の新人研修では、新しい問題があった。

ある日のコミュニケーションシートの中に埋められていた爆弾である。

提出時に一目見て涙ぐみ、家に帰って読んで涙ぐみ、コメントを考えるたびに涙ぐむ、という危険きわまりない文章だ。

選択肢は二つ。
読むか、読まないか。

爆弾の全文である。

「A班発足時、班員の中で、「コ ーディングを完成させたら私達の勝ち」というルールを設定しました。
本日昼、勝利を収めることができました。
明日は発表のトップバッターとして、一番にプロジェクト演習を完了するのはA班です。ベストを尽くします。」

短い文章の中に、困難に立ち向かう決意と、やり遂げた充実感と、自分と班に対する自信と誇りが余すことなく表現されている。
間違いなく名文だ。

私にとって、読まずにすませることができる文章ではない。覚悟を決めて読んだが、やはり涙ぐんでしまった。

思う。

こんなに日々、感動の種が転がっている講師という仕事はすばらしい仕事だ、と。

泣くのはちと格好悪いが、そんな気持ちになれることは、素晴らしい。

もう、いっそのこと、格好つけずにワンワン泣いてしまおうか、とも、ちょっと思う、今日この頃である。

Takanori

ヒトノチカラ

毎年の研修でも、ラグビーのグラウンドでも思うことは、人の持っている能力のすばらしさである。

研修や練習では、みんないろいろなことができるようになっていく。
だが、私の研修ではほとんど教えない。
グラウンドでも「もっと速く」などと言っているだけで、どうしたらよいのかなんて言いはしない。

でも、みんなできるようになっていく。

だから、彼ら、彼女らの成長は、私が講師やコーチでいるからではない。
それぞれの人が持つ、本来の力が発揮されただけなのだと思う。

今の時代の教育、指導の多くは、型にはめ、可能性を奪うことが多い。
伝え聞く教育現場の事例からは、そのようにしか感じられないし、よくグラウンドで目にする「指導」もそうである。

人を信じ、本来の力を発揮させれば良いだけなのに、何故そうしないのか、とても不思議である。

講師やコーチは、きっかけと気づくチャンスを与え、少し背中を押す以外にすることはない。

場合によっては、方向を示すことはあるだろう。新人研修や初心者に対するコーチングでは、必要な最低限のティーチングも大切である。

だが、自分で動き始めたら、信じて見守ってやればいい。

私の研修では「ていねいに教えてくれてありがとう」などという感想は出てこない。実際に教えてないのだから、当たり前である。
代わりに出てくるのは「多くのことを学べた」である。

必要以上に、教えてはいけない。
それはチャンスと自主性を奪う。

動き始めたら、信じて任せなければいけない。
そうすれば、その人の本来の「チカラ」が発揮されるようになる。

信じる力こそが、育てる力であることを、経験を重ねるごとに強く思うようになる。

コーチング研修で知った「コーチングとは待つことだ」という言葉を、日々、重く感じるようになっている。

Takanori

2012年度の新人研修

今年の新人研修も、終了報告会を終え、無事に完了となった。

成功か、失敗か、と聞かれれば、成功だとは思え、手応えもあったのだが、本当に結果が出て評価をされるのは、新入社員の方々が現場に出てからのことになる。

仕事として研修を行う以上、費用を負担するクライアントの意向は絶対である。

そのため、私の基準でどんなに「成果が上がった」と判断しても、現場で評価されなければ意味がない。

なので、クライアントの意向を重視した上で、プロの講師として自分の信じることを行うスタンスでいるのだが、今回は、私の考えている方針に全面的にコミットしていただくことができた。
事前に打ち合わせで、クライアントの担当者の方と、目指している方向が同じであることは感じられたので、妥協することなく研修を実施できた。

私の目指す結果は、ほぼ出たと思う。
受講生の方からも「もっと続けていたい」などの評価をいただくことができた。

だが、現場での評価がやはり大事なのである。

来年、私がまた講師としてこられるように「現場に出てからがんばります」と言ってくれた受講生もいる。
涙が出るほどうれしい。
彼らの気持ちと研修の成果が、現場で評価されることを祈るばかりである。

研修に完全はあり得ない。
今年も「もっとこうしていれば・・・」「ああしていれば・・・」という反省は多々ある。
だが、それがなければ、私自身の成長もないので、しっかりと振り返りを行い、具体的なアクションを考えておきたい。

研修で、受講生が繰り返したように、私もPDCAサイクルを毎年回し続けている。

来年のことはまだ分からない。

だからこそ、よりよい研修ができるように、私自身も成長しておきたい。