Archive for 2011年10月27日

Takanori

セキュリティとインフラ

衆議院のネットワークがハッキングされたことがニュースになっている。少し前のソニーでもあったし、防衛関係の企業も侵入されたとかされないとかやっている。
毎日、そんなニュースが流れている。

だが「侵入」が具体的にどんなことなのかを知っている人が、どれぐらいいるのだろうか。

技術的な内容がメディアに載らないのは、セキュリティ的な観点からは当たり前であるが、もう少し「何が危ないのか」は徹底して教えておく必要があるだろう。

いくつかあげてみよう。

・大丈夫と確信できるファイルは開かない。
基本的に「どこの誰が送ってきたか」、「どこから持ってこられたか、」、「なんのファイルか」などの素性が明らかでないファイルは開いてはいけない。
メールの「From:」は簡単に詐称できるし、意図していたの違うホームページが開かれているかもしれない。
Windowsパソコンなどでは拡張子にも注意しなければならない。
ファイルを「開く」時には注意が必要で「とりあえず開いてみる」は御法度である。
君子危うきに近寄らず、が絶対的な真理である。

・アンチウィルスが入っているから安全ではない。
アンチウィルスユーティリティが入っているからといって、それで全てがカバーできるわけではない。
あくまでも保険である。
新しいウィルスが出てきて、それが発見されてから対策されて広まる場合もあるのだ。
発見が単なる発見なら良いが、感染して見つかる場合もあるだろう。
入っているから安心、ではない。
セキュリティの各種設定もできるようになっているが、無効にしたままではそもそも意味がないが「不便だから」という理由で「無効」になっている例も見かける。
多くの場合、そのことも忘れている。
もっとも、セキュリティプログラムをいれていないのは問題外である。

・USBメモリにデータを入れて。
他の人からUSBメモリでデータをもらう場合、それが感染している場合もある。
メディアに対するウィルスチェックがなされるかどうか、確認しなければならない。

・便利なユーティリティをネットから導入。
本当に安全なのか確認することは難しい。
スパイウェアと呼ばれるような、一見問題ない動きをしていて裏で悪さをするものもある。
実際の監視はかなり難しい。

だが、これらが徹底できたとしても、まだ危ない。

何もしていなくても、ネットワークに接続するだけで感染する場合もある。
これを考えるにはネットワークの構成に関する理解も必要である。

また、サーバー上のサービスを提供しているプログラマが正しい知識を持たなければならないし、持っていたとしてもそれをきちんと使わなければ意味がない。
もちろんWindowsなどのOSについているプログラムもそうである。
実際には漏れがあるので、セキュリティアップデートなどとして、脆弱性が見つかったプログラムを入れ替えて更新している。

バッファオーバーフロー、SQLインジェクションなど高度な攻撃方法もあるが、基本的な対策案はある。
だが、現状、それを徹底させる方法がない。

今のコンピュータは安全には作ってない。
安全に、ではなく便利なように作ってある。
その便利さがセキュリティホールの原因になっている。

ウィルスというのは、いわゆる「プログラム」である。
今のコンピュータはウィルスでも、通常のプログラムでも区別せずに動かす。
だが、ウィルスプログラムを動かしてしまったら負けである。

本質的には、データスタックとプログラムスタックを分離したCPUを使ったり、データは文字列ではなくオブジェクトととしてしか扱えない言語を使ったりするような、根本的な解決を図らなければならないのだろうと思う。

WindowsXPのサポート切れが近づき、Windows7もしくはWindows8への移行を促されている。
提供元のマイクロソフトでは、Windows7のほうがWindowsXPよりも安全と言っているが、Windows7でもウィルスに感染するときはする。
ユーザーに正しい知識(を求める必要はないはずなのだが)がなければ、ダイアログを出そうが何をしようが、ウィルスプログラムを実行できてしまうからだ。

マイクロソフトという一企業のプロダクトが世界中に影響を与えすぎではないかと、私は思う。

セキュリティの面からも、コストの面からも、OSレベルのソフトウェアは、基本的に公のものであるべきなのではなかろうか。
少なくとも「一企業の独占」ではいけないはずである。

そうすると「停滞する」という声が上がるかもしれないが、安定のための停滞ならばよいと思う。
例えば、WindowsXP では絶対にできないこともない。

競争が必要ならば、「OSの規格」を定めてその実装を競ってもよいだろう。
以前の TRON が目指したことであるが。

セキュリティに関して言えば、私に言わせれば「危なすぎる状態」がずっと継続しているように感じられる。

Windowsは便利であるが、長期的に考えて、違う方向を探っていかなければならないはずである。
かなり難しいことが山積みではあるが。

Takanori

「スキルコーチングで育てるスキル」が私の強み

昨日、無料のマーケティングセミナーへ出席してきた。
実際にはさわりをセミナーで話し、本格的な内容は○○万円はらって聞いてね、という販売セミナーだったのだが、そのさわり部分でもいろいろ参考になった。

出席したのは「ジェイ・エイブラハムのマーケティングを学ぶ無料体験講座」というものである。

無料の体験セミナーということで、本当にさわりの部分だったのだが、私がやろうとしていることやっていることが、明確な言葉として表現されている部分もあったし、なるほど、という部分もあった。
欲目で見えなくなっている部分に気付かされることもあった。

余裕があればこの商材を買って学んでみたいが、残念ながら現在はその余裕もないので見送りである。
そのうちに余裕ができたら一度しっかり学んでみたい。

だが、さわりから学べたものも多いし、刺激をもらうこともできた。

その中の一つに「自分の(自社の)UPSを明確にする」というのがあった。

ちなみにUSP(Unique Selling Proposition)とは「独特の強み」のことで、オンリーワンになるために必要なものである。
UPS(無停電電源装置)ではない。

知っていたことも、人に話してきたようなことも、明確な言葉にすると力が増す。
ここのところそのような経験が多いので、ここでも私の「強み」を明確な言葉にしてみる。

・スキルコーチング技術
コーチ側が答えを持たない場合はやむを得ないが、教える事が決まっている場合にはスキルコーチングの方が圧倒的に有利である。
昨日の異業種交流会の中でメンタルコーチングをされている方と話をさせていただく事があったが、おもしろいですね、と言っていただけた。
パーソナルコーチングの経験もある。

・講師スキル
まだまだ未熟ではあるが、相手を巻き込むような話し方はできるようだし、スイッチが入っていれば聴くこともできるという、講師スキルは持っている。
他の講師と比較することはほとんどないが、プロ講師を育てるという解説ビデオを見ていても、とくに目新しいこともなくすでにやっていることが多かったので、それなりのレベルなのだろう。

・コミュニケーションスキル
コーチングスキルは双方向のコミュニケーションスキルであるため、メンタルコーチングの技法を含め、ただ話すだけの講師よりは、よりコミュニケーションに対して深く関わっている。
それを教えるという行動を通して、さまざまな伝え方ができるようになっているのもポイントだろう。
カウンセリング分野に一歩踏み込んだ知識と経験も

・IT業界における広く深い経験
ハードウェアの設計から、組み込み、業務アプリ、Webアプリ、ネットワークアプリまで20年を超える、数多くの開発経験からさまざまなものを学んできた。
IT業界以外の多くの業界に接することができ、多くの企業文化にも触れてきた。
開発業務については、広く深くという形になっている。
これらの経験と知識は私の大きな財産となっている。

これらが、私のもっとも重要な柱である。

つまり、私の強みの大きな要素は「育てるスキル」そのものである、ということになる。
「育てるスキル」をのぞく専門としては「IT関連スキル」である。
結局、私の最大の強みを発揮できるのは「IT関連スキルを身につけさせること」になる。

だが、実際には「専門的な事を知っていること、できること」より「育て方を知っていること」のほうが、学ばせるために有利であるのは私の経験から明らかである。
そういう意味からは「スキルコーチングをベースとした育てるスキル」のほうが強みとしてより優位である。
20年を超えるIT開発の経験からくる専門性がかすんでしまうほど、「育てるスキル」は強い。

そして、そのスキルを人に伝えられるレベルで理解し実践していることが、私の最大の強みである。

「心に火をつける方法」を知りたければ聞いて欲しい。

「心に火をつける技術」を身につけたければ、私の研修を受講して欲しい。

このように言えることが、私の最大の強みである。

ついでに、少し弱みを述べておこう。

それは、残念なことだが「育てるスキルの重要性、コーチングの有用性」が、まだまだ一般の研修において認知されていないことだと思う。
メディアでもいろいろな情報が流れているが、まだ点である。
多くの情報が流れ、点と点がつながり、線となり、線が重なって面となるまでには、もう少し時間が必要かもしれない。
それまでは「弱み」をカバーして余りある「強み」を提供し続ける必要があるのだろう。

やはりチャレンジである。

Takanori

商品としての研修と、学びの場としての研修

今回はぜひ経営者の方に読んでいただきたいと思う。

先日、他の研修を主催されている方と話す機会があったのだが、その方と私との合い言葉は「人を幸せにする」研修をしたい、である。

その方と話をする中で次のような話が出てきた。

「企業の研修を担当する人事部門の壁を越えるのが難しい。」

私自身の感触もまさにその通りである。

「学ばせる研修」はこんなにいいものなのに、と思っても、ある程度の規模の研修を行う研修会社に回ってしまう、各種の研修の仕事をいただくことができない。

いくつも理由はあると思うが、2つだけあげてみよう。

まず「あやしい」である。
もちろん、知らないことであるからそう思われても仕方がない面はある。
だが、NHKでも「コーチング」という手法が「クローズアップ現代」で紹介されるなど、「考える」ことを重視する時代になっている。
「この方法でやりなさい」式では乗り切れない時代なのだ。

いつまでも「あやしい」と言いつつ、この流れに乗れなければ、いつまでも人を育てることで後手を取ることは間違いない。

進んでいる会社では「コーチングを全ての社員に学ばせる」というところまでいっている、という話もあった。
私の考えている理想の一つがそこにはあるが、コーチングスキルを学ぶことそのものが、考えることにつながっている、コミュニケーションスキルの向上につながっていることが、番組の中からもうかがえた。

もう一つは「失敗したくない」である。
今の多くの研修の形は「無難」である。

おなじみの研修であれば、おなじみの形で始まって終わる。
そこには心配が少ない。
今までよく知られている、みんなが知っている形であるからだ。
中にはワークショップを導入している研修もある。だが、本当のワークショップを知らなければ「形だけのワークショップ」となって本当の力を引き出せていないし、そのようなワークショップもたくさん見たことがある。

今、私がやろうとしていることは「ハイリスク・ハイリターン」だと思われるかもしれない。
失敗するかもしれないが、うまくいけば効果が上がるかも、である。
そう思われるのもしかたがない面はある。
全ての人が納得できるような紹介も、それを明確に伝える言葉も、残念ながら、今はない。

だが、私の研修で、受講生が残してくれた感想を見ると、皆が驚く。
特に研修事業に携わっていて、現場を知っている人はなおさらである。
なにせ、研修会社の担当者が「こんなのは見たことがない」と言うのである。

それに、実際の所は「ハイリスク」でもない。
基本が普遍的な手法であるので、大きな失敗はないのだ。

今の多くの研修は「商品としての研修」である。
カリキュラムを売っている。
研修をした、という事実を売っている。
もちろん全てがそうではないが、そういう研修が多いのは間違いない。

だが、本当は「学びの場としての研修」でなければならないのではないだろうか。
カリキュラムではなく、人が育ったという成果、を買うのだ。
研修をした事実ではなく、人が変わったという成果、を買わなければ無駄である。

1つ問題がある。
カリキュラムはコンテンツを持っていれば比較的簡単に作れるのだが、本当に学ばせられる「教え手」を育てるのはそう簡単ではないことである。

「スキルコーチング」という考え方を取り入れて講習を行っているところはまだ少ない。
いくつか知ってはいるが、それとても「考える」部分が徹底しているとは言い難いところもある。

「もっと学びたい」という感想が出てくるような研修であれば、研修が終わってからも学ぶ気持ちが持続するであろう。
そういうのが本物の「学ぶ場」であると思うし、私の研修では、そういう感想を毎年もらっている。

同じ金額で「研修をした事実」と「本物の学ぶ場と成長」のどちらを買うのが有効なお金の使い方なのだろうか。

Takanori

コーチングの力と学ばせるスキルの普遍性

少しお堅いタイトルである。

知らない人からすれば、コーチングというのは怪しいものであるだろうし、専門家でなければ学ばせることができない、と思うのも当然であろう。

そういう視点からすれば、私がIT関係の専門家であるからIT技術を学ばせるというのは、専門家であるから当たり前だと思われる。

しかし、本当にそうなのだろうか?
私が研修を行って学ばせることができるのは「専門家であるから」だけなのであろうか?

以前に、私が技術研修を行った際に「私はその技術をよく知らない。」と宣言して始めたことがある。
その後に続けた言葉が「でも、教える専門家です。」であった。
実際には、全く知らないわけではないが、その道何十年というベテランでないという程度だ。
少なくとも「見本」となるようなスーパー技術者ではない。

だが、その研修の感想が「これまでの研修とは全く違う手ごたえに驚いた」なのだ。

もちろん「よく知らない」と宣言しているわけであるから、細かい技術を伝えることはしていない。
「それは知らない」という言い方も何度も使った。
しかし、上記の感想である。

なぜなのだろうか。

一つは、教える内容の本質を理解していること、である。
それにより学ばせなければいけない内容が分かる。

もう一つは、教え方を知っている、からである。
考えさせて、理解させる方法を知っているからである。
そして、学ばせる方法として一番有効なのが、私が知っている限りコーチングの手法なのである。

一般的な視点からは「コーチングで学ばせる」というのはかなり嘘くさいものであろう。
なんせ基本が「教えないで教える」なのだ。
「教えないで学ばせる」と言い換えると分かりやすいかもしれないが、それがコーチングの技術である。

人が育つ基本はどのような場合でも同じである。

自ら考えて、試してまた考えること。

これしかない。

そして、これだけがきちんと分かっていれば、さまざまな面で応用が利く。
非常に普遍的な手法で、適用範囲は驚くほど広い。

私が手がけている研修の内容は、おそらく一般的な講師よりもかなり広いだろう。
IT技術研修でプログラムの書き方を教えていたり、コミュニケーションを伝えていたり、チームビルディングの仕方を伝えていたりする。コミュニケーションだけとっても、伝え方、聴き方、質問の仕方など幅が広い。
同じ手法でラグビーを子供に教えることも、サッカーを教える事もできる。
そして、それぞれの研修において、おしなべて高い評価をいただいている。

これができるのは、私が「本質を理解する」ことに努め、「育てるための普遍的な手法」を知っているからに他ならない。

今、講師に講師スキルを伝える研修を企画している。
短時間のセミナーの形をとろうと思っているので、なかなか伝えきれないものはあるだろうが、私の持つ講師スキルを公開していこうと思っている。

Takanori

ラグビーコーチの成長

3連休中の2日間はラグビーの日だった。

中学3年生の埼玉合同チーム(複数のラグビースクールの中学生があつまり1チームを構成)の合宿であり、三郷で練習し、上尾に移動してミーティングや練習を行い、一泊して、また翌朝三郷に戻り練習する、というハードスケジュールである。
それに加えて、三郷ミニ・ラグビー交流会のレフリー講習を行い(レフリーはやらないので、講習会の主催側)、その後に同じく交流会の準備会議である。

帰ってきたらぐったりして、少し、というか、たっぷり寝てしまった。

そんなラグビー漬けの2日間だったのだが、いくつか印象に残ったことがある。

一つは、子供達の成長だった。

合同チームは基本的に毎年監督が交代する。

今の監督は私が所属しているラグビースクールのふくじゅ草のコーチであるが、子供達にラグビーの楽しさを教え、自分たちで考える楽しさを教えている。
最初のうちはなかなか成績は上がってこない。

なぜなら「ラグビーというスポーツの動き方」を教えないからである。
他のチームは勝つことを目的とし「こういうときにはこうする」式の教え方をするのだが、なにせ「教えないで教える」なので、子供達には「こういうときにはこうする」ではなくて「どうしたらいいか考えましょう」なので、考えることに慣れるまでは大きな成果が上がってこないのである。

しかし、ここのところ、考えること、自分たちで動くことに慣れ、子供達の動きが目に見えて良くなってきて、練習に取り組む姿勢、目の色が変わってきたように見える。
他のチームとの試合をしても、だんだん成績が良くなってきている。
これからも尻上がりに成長していくことだろう。

子供達の成長もすばらしいのだが、同時にその監督もすばらしい。

合同チームはさまざまなスクールのコーチが参加することになるので、いろいろな意見があるだろうし、無言のプレッシャーもあっただろうが、それに負けずに「教えないで教える」を貫いたのである。
その成果は子供に現れている。

もう一つは、コーチの成長である。

あるコーチから、Cチーム(小学1、2年生)の練習で「こんなメニューで練習し、子供からいろんなものを引き出せた」と、うれしそうに話すのを聞かされた。
そのメニューは、私が嫉妬するぐらいすばらしいもので、うれしそうに話すのも当たり前だろう、と思えるものであり、全体の組み立ても、実施方法も含めて素敵なものであった。

それと共に、さらに学びたいという強い意志も感じられた。

私も負けてはいられない。

身の回りにこのような刺激を与えてくれるコーチ達が居ることの幸せを感じながら、私もがんばっていきたいと思う。

Takanori

研修という商品の値段

世の中の商品には値段がついており、欲しい人はその値段分の費用を払ってその商品を購入する。

何を当たり前のことを言っているのか、と思われるだろうが、先日、仕事の打ち合わせに行ったときに、こんなことを改めて考えるような言葉をもらった。

私が「私の講習の値段は、本当は、やっているところを見てから決めて欲しい」と話したときのことである。

これを受けて、先方の方が「よっぽど自信がないとそんなふうには言えませんね」と言われた。

私のような講師の仕事にはだいたいの相場がある。
もちろんプログラマにもあるし、他の一般的な仕事にもだいたいの相場があるだろう。

代表的な普通車はだいたい150万あれば買えるよね、というレベルの話である。
一般的な講師はだいたい○○円だよね、という相場があるのだ。

車には代表的な相場の車しかないわけではない。軽自動車ならば安くて100万弱、ファミリーカーが200万前後、高級車が500万から、みたいな形で、商品の価値に応じての相場がある。
実は、講師でも、仕事のレベルに応じて値段がつくことがある。

ただテキストを読むだけの講師、決まり切った説明しかできない講師では安い車、一通り自分の言葉で説明できればファミリーカー、受講者の心に火をつけるようなことができれば高級車、みたいな感じだろうか。
実際には、受講者やクライアントの満足度や評価によりに、レベルが決まると考えて良いだろう。
もちろん、テレビに頻繁に出ているような著名人であれば、フェラーリレベルの付加価値となるが、それは別格である。

車が欲しい人は、自分の予算と車のレベルを秤にかけて、いくら払えるのかを考え、車を買う。

同じ事が「研修」というサービスを買うときにもあるべきだろう。

ただ、「研修」というサービスを買うときの問題は「講師の価値」「研修の価値」というのが車ほどは明確ではないことだろう。
テレビに出演している、著作がたくさん売れている、などの付加価値がない限り、その価値や性能が「カタログに書いてある」わけでもないし、「全ての講師が紹介されている雑誌」があるわけでもない。

残念ながら私はテレビに出てもいないし、たくさん売れた本の著者でもない。
結局、講師を見てもらい、研修を見てもらい、その価値を判断してもらうしかないのだ。

そんな意味で冒頭の話をしたのだが、私にとっては当たり前のことであるし、その上で、高級車やスポーツカーと認めてもらえるようになりたいし、ならなければいけないと思っている。
そして、その価値分の費用を払ってもなお、私が提供できた価値に満足してもらえるようになりたい。

「自信があるか?」と聞かれれば、あると答えるだろう。
これまでの実績からみても、決して悪くない結果を残しているつもりである。
ただ、高級車を求めている人に、ファミリーカーの自信ではいけない。

だから、ファミリーカーを欲しいと思っている人に高級車の価値を、高級車が欲しいと思っている人にはスポーツカーの付加価値をつけられるような研修を行いたいのだ。
自信はあるが、さまざまな条件の下での仕事になるので、挑戦の部分が必ずあるので、気は抜けない。

世の中には「ファミリーカー分の費用しかもらわないから、ファミリーカーを売ってきてください」という場合もある。だが、私は一ランク、二ランク上のサービスを、提供し続けたいし、それが許される環境で仕事をし続けていきたいと思うのである。

Takanori

講師として最大の失敗

私が本格的に講師として活動を始めてから10年近くになる。

いつも順調に仕事をしてきたかというと、そんなことはない。
大小、さまざまな失敗をしてきている。

小さな失敗は上げればきりがないが、私の最大の失敗はとてもわかりやすい。
今回はその失敗の話である。

それは、私が初めて新人研修の講師としての仕事を行ったときのことである。
私はまだプログラマとして仕事をしていたのだが、さまざまな方から仕事の紹介をもらっていた。
その中の一つに「新人研修をしないか?」というのがあった。
もともと教える事は好きだったので、「やります」と返事をし、クライアントと打ち合わせをして、カリキュラムを作った。
期間は一ヶ月半である。

その頃の私は、ごく普通の説明をし、演習問題を少しやらせ、分からなかったら解答を配り、次の説明をする、というごく普通のよくある技術研修のイメージを持っており、企業担当者の「みんな初心者ですよ」という謙遜の言葉を真に受けて、それにあわせてカリキュラムを組み立てていた。

そして研修が始まり、自己紹介をしてもらいそれぞれの経験や知識を聞いていく中で、私の頭は真っ白になった。

全然「初心者」などではないのだ。

このままでは、用意したカリキュラムなど2週間で終わってしまう。
残り1ヶ月、どうすればよいのだろう。
私は、すさまじい勢いでテキストの説明をし、その日を終え、逃げるように帰った。

以下は、記録に残っている、その時の受講生の指摘と、私の反省である。
「講習生のレベルをきちんと把握できていなかった。
説明の時間が長く、手を動かす講習がほしいという講習生からの指摘有り。
慣れていないためか質問などがなく、2日間の予定の内容を1日で話し終わってしまった。」

しかし、やめるわけにはいかない。

これが、私の講師経験の中で最大の失敗である。
自分の知っている研修の形をそのまま実施しようとし、受講生のことをちゃんと考えていなかったのだ。
今から考えると恥ずかしい限りであるが、それがその時の私であった。

幸いにも、初日が金曜日だった。
次の講習まで二日間の休みがある。

私は考えた。
どうすればいいのだろうか。

その頃、私はラグビースクールで「コーチング」という考え方を知っていた。
「ワークショップ」という道具の存在も知っていた。
「教えないで教える」という言葉も知っていた。
だが、それを使えるようには、全くなっていなかった。
ただ「知っていた」だけだった。

しかし、それにすがるしかなかった。
他に、私の頭の中には「教える」ための手段がないのだから。

そこで、一生懸命に「コーチング」「ワークショップ」「教えないで教える」を頭の中で繰り返し唱えながら、次の日のカリキュラムを作り始めた。

課題を与えグループで考えさせて発表させる。
私がたどり着いたところはここだった。

2日目が終わったところの記録である。
「やはり説明の時間が長かった
グループ数が多いためにワークショップの発表でだれてしまう。
ワークショップで発表のテクニックを教えなかったために発表方法がよくなかった。
プレゼンテーション技術の講習をどこかで行うことを検討する。」

まだうまくできていないのは明白だが、今、行っていることの芽がここにあるのも感じられる。

それからは毎日、結果を見て反省し、午前3時、4時まで次の日のカリキュラムを考え、また実施して観察する、というサイクルの連続である。

しかし、ある程度進んでくると、手ごたえが出てきた。

中盤以降の記録である。
「だが、実際には作業内容はすばらしいものがあった。
所々でアドバイスをしているだけなのだが、設計が行き詰まった際に自発的に設計を見直して、やり直して、それによりよい設計ができたことを実感している班があったり、ほんとにしっかり設計を行うことを心がけていたり、内容的な漏れもだいぶ少なくなったり、見るべき点は多い。
時間的にも、仕様作成の段階の調整で、もともとぎりぎりの時間を設定しているので、これぐらいの遅延は十分許容範囲だと考えられる。それよりも時間を考えながら作業しているときの集中力はすばらしい。
彼らはいい意味でこちらの期待を裏切ってくれている。」

そして、最後には研修終了時に涙ぐんでくれる人が出てくるような研修となった。

この初回の研修は、私にとっての最大の失敗であるのだが、私の講師としての形の出発点でもある。

なぜ、頭が真っ白な状態から復活することができたのかといえば、たまたまコーチングやワークショップというものを「知っていた」からだ。
逃げ場がなかったから、というのも大きいだろうが、土壇場で、知識が私を救ってくれた。

私は講習でよく言う。
「いろんなことを学んでいると、知識がそれぞれの分野ごとにばらばらで存在するように感じます。
でも、ある程度知識の量が増えてくると、それらがつながるところが出てきます。
そうしたら、より多くのものが見えるようになります。」

これは私の経験からの言葉である。

あるとき、新人研修の感想として、次のような言葉をもらったことがある。

「長谷川先生の話は、経験談が多く体系化されていないため、正しい方法なのか不安であると感じました。」

確かに、そんな学術論文や本を見たことがあるわけではない。
だが、私のこれまでの経験の中から見つけたことは、少なくとも私の中では正しいことなのだ。
そして、それを伝えていきたい。

本を読めば分かることもあるだろうし、私の経験からの結論が間違っていることもあるだろう。
その場合には、受講生がそれを見つけて自分のものとしてくれればいいのだ。
私が常に正しいとは限らない。

だが、2年以上前に、茂木健一郎さんが「プロフェッショナル仕事の流儀~プロに学べ!脳活用法スペシャル『これが育ての極意だ』」という番組で紹介していた、人を育てるポイントを見て、「そんなの前からやってるよ」と言えたぐらいには正しいようである。

最初の新人研修が終わって1週間は、何もする気が起きなかった。
魂が抜けた感じがしたのを、今でも覚えている。

そして、現実に戻ったときに「もっと良くしたい」「きちんと教える事を学びたい」と強く思った。

これが私の講師としての最大の失敗であり、私の原点である。

プロフェッショナル 仕事の流儀 動画 「プロに学べ!脳活用法スペシャル これが“育て”の極意だ!」 09年03月31日放送分

Takanori

私の研修・セミナーの特徴

私が実施するセミナーや研修は幅広い。

IT技術研修
IT技術系新人研修
一般新人研修
管理職研修
社内講師研修
講師研修
コミュニケーション研修
コーチング研修 など
上記に関わるセミナー類

さらに、コミュニケーション研修と一言で言っても、IT技術者向け、管理職向けなど、さまざまな目的ごとに細分化することもできる。

これは私の研修の中心には「人を育てる」「コミュニケーション」「IT技術」「コーチング」という4つの柱があるためで、これらでカバーできる範囲はとても広い。
加えて、これらを組み合わせてカリキュラム化するスキルも柱の一つと言ってよいかもしれない。

IT企業系の新人研修では、これらすべてが有効に活用できるし、管理職研修ではIT技術をのぞく3つ、コミュニケーション研修でもIT技術をのぞく3つが利用されるという具合である。

私の研修でおもしろいのは、「教える内容」が研修で「実際に使われている」ことであろう。

管理職研修の中では、コーチングスキルや人を育てる理論、コミュニケーションを当然使うことになるが、それはまさにその研修で学んでもらいたいことになる。
そのため、実地に体験しながら理論と実践を学ぶ、というとても「お得」な研修となる。

以前にIT技術系の講師講習をした際に次のような感想をいただいたことがある。

「特に印象的なのは、『教えないで教える』という一見矛盾しているような不思議な考え方です。元々私は人にものを教えるのが得意ではないからか、これはとても不思議なことで、理屈ではうまく説明できないのですが、自分自身が実際に体験しているので納得しています。」

理論と共にそれを実践していることで、受講者の理解も納得度も上がっていく。

1日や2日のセミナーでは十分に体験してもらうことは難しいかもしれないが、それでも「聞くだけ」よりははるかに理解につながることができる。

私にとっても繰り返し実践することで、新たな気づき、反省があり、私自身も上達していき、さらにそれを次の受講生の方に伝えることができるようになるので、実施を繰り返すことがよりよいものを作ることにもつながっていく。

私がセミナーや研修でお伝えしているのは、実際に私が使っているスキルである。
それを体験して効果を実感してもらえれば、学ぶモチベーションが高くなることは間違いない。

これらの研修を助成金を利用して開催する準備も進めている。

興味がある方はぜひお問い合わせをいただきたい。

hasegawa@technosense.co.jp

Takanori

Stay hungry, stay foolish.

「ハングリーであれ、馬鹿であれ」

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチの締めくくりのメッセージである。

圧倒的なエネルギーを持って、創造的破壊を繰り返したジョブズに比べられたら怒られそうであるが、私も見習いたいものである。

私にとっての創造的破壊、とはどのようなものだろうか。

私のような、受講生の最善のために独自に判断し動くような講師は、実際のところ、一般的な研修会社とは相性が悪いことが多い。
講師として応募しても、方針が違いますね、と言われて断られたことも、一度や二度ではない。

事情はわかる。

講師のスキルに依存した研修となると、同じ研修を他の場所でも実施しようと思えば、その講師しか使えないというのはリスクになる。研修会社としては、誰がやっても同じ研修を実施できるようにしておきたい、というのだ。カリキュラムを売るには、それが必要だからだ。
本筋からいえば、講師をしっかり育てることで実現すべきであると思うのだが、かかるコストの問題や、安定した需要が年間を通してあるわけではないなどの研修業界特有の問題などで、それがまた難しいことであるのもわかる。

しかし、教育というのは「人」に依存した仕事である。
教える内容を知っていても、教え方、伝え方、育て方を知っていないと、本来の目的を果たすことはできないし、なにより心理が学ぶことに深く関わる以上、それに対応できる「人」がいなければ効率的な学びは実現できない。

それをよく知っているのが、同じ教育関係の学習塾業界であろう。
テレビの広告にまで講師を出し、その講師の特徴を売り込んでいる。
そして進学率なども競い合い、かけたコスト分だけ、成果が出ますよ、と宣伝している。

それほど遠くない将来に、企業研修の世界も、コストと成果をきちんと評価し、とりあえずやった、という研修から、やった結果こう変わった、という方向に向かうだろう。

研修がおわった時に「期待していなかったんけど、出てよかったです。」と言われることも多い。

でも、おかしいと思わないのだろうか?

お金を払って研修をするのであるから、払った分の成果があって当たり前なのではないだろうか?
テレビを買う時に「映らないだろうが、映ったらラッキー」とは誰も考えないだろうが、研修に期待しないのは、映らないテレビを買おうとすることに等しいのではないだろうか。
映ることではなく、テレビを買うことが目的というのはおかしい話である。

テレビを買うのは目的ではなく、映し出された番組を見て楽しむことであるはずだ。
研修をするのが目的ではなく、研修で成長しその後の生活に、仕事がよりよいものになることが目的でなければならない。

期待されない研修ではなく、期待される研修とし、期待された以上の成果を出せる講師になりたいと思う私はへんなのだろうか?

このような話をしていたら、先日知り合った方から「『本物』を広めるのは大変なんですね。」という言葉をいただいた。
非常にうれしい言葉である。

「本物」であることを目指し、努力を続けていきたいと、あらためて思った。

学習塾業界も、どれだけ教えないかに工夫を凝らしている、というニュースも最近あった。
考える力を育てるために、だそうだ。

今の時代、人を育てようと思えば、そこに行き着くのだ。

考える力を養うことが、成長のための早道であるとともに、今、求められている人材を育てるのに必要不可欠な方法なのだ。
「教えないで教える」ことが育てるために大切なのことなのだ。

こんな私だが、私を理解していただいた上で、毎年仕事をいただける研修会社もある。
担当者にはきっと胃が痛くなる思いをさせていることと思うが、感謝している。

私にとっての創造的破壊、というのは、映らないテレビを買おうとする価値観を壊すところから始まるのかもしれない。

Takanori

スティーブ・ジョブズに捧ぐ

中学生の頃、読んでいたコンピュータ系の雑誌で、Apple II を見た。
8bitの6502を搭載したマシンで、今から見るとオモチャ以下のレベルではあるが、グラフィックを使えた。
VisiCalc という初めてのパソコン向け表計算ソフトが動き、なによりおしゃれだった。
カードスロットも搭載し、さまざまなカードで拡張もできた。

高校の間に、Lisa が出た。
おしゃれな名前だった。
名古屋のコンピュータショップでさわってみたことは覚えている。

高校を出る頃に Macintosh が出た。
一つしかボタンがないマウスをさわり、画面に開く窓を見た。

社会人になってしばらくして、会社の上司が Macintosh Plus を買ってきた。
自分にはとても買えない値段のその一体型のコンピュータをさわって感動した。
窓が開き、見たまま印刷できる。
フォントもいくつも使え、文字を打たなければキーボードが無いことを忘れる。
そんな機械だった。
それまで、MS-DOSやCP/Mなど文字の世界だけでコンピュータに触れていた者には衝撃だった。
ちょっとさわっただけでは、ふーん、と思うだけだったGUIは使い込むと手放せなくなる魅力があった。

少ししてお金を貯めて MacintoshIIcxを買った。
しばらく事務系のメインマシンだった。
Windowsはまだまともに使えるような代物ではなかった。

雑誌に載る NeXT のコンピュータの先進性に胸をときめかせたのもこの頃か。
「使ってるけどいいよ」という知り合いの言葉を、今でもうらやましいと思いながら思い出す。

携帯用は PowerBook550c である。
その前には PowerBook540 を持っていた。
遅かったが、ネットワークにつなぐのが便利だった。
最初のころは、Windowsはネットワークスタックを持っていなかった。
個人に解放されたネットワークに接続するのは、主にMacだった。

IIcx が遅くなって、Quadra800を買った。
どれだけ使い込んだろうか。
予算が許すだけメモリも積み、ハードディスクも何度か交換した。
CPUボードもアップグレードした。
ただ、徐々に Windows の優勢が明確になり、仕事上も Windows が必要になり、徐々に Windows にマシンも移っていった。

ずっと Windows マシンをメインに使っているにも関わらず、今、私の手元には、MacMini、iPad、iPod Touch とApple製品、ジョブズの子供達がいる。
押し入れの奥には、中古で買った Macintosh Plus も捨てられずにひっそりとしまってある。

GUI、洗練されたマニュアルや包装、こだわりのある、芯が通ったデザイン、こだわりのある点では、妥協のない仕様と技術、そんなものが私の知っている Apple 製品の魅力である。

Apple の製品は常に使う人を見てきた。
Apple の製品は機械ではなく道具だった。

一度 Apple から首を切られ、復活して戻ってきたとき、ジョブズは名実共に世界のコンピュータのビジョンを作るカリスマになったような気がする。

それから後のAppleは凄かった。
ときめく道具をたくさん見せてくれた。
iMac しかり、iPod しかり、iPad しかり、Macintosh ももちろんである。キーボードのデザインでさえ、Appleが引っ張っている。

そんなふうに、Apple II からずっと、世界のコンピュータの歴史を作り続けてきたジョブズが亡くなった。

私が Apple の製品を買うときには、ずっとスティーブ・ジョブズの語る夢を買ってきた。
今は、そんなふうに思える。

これから、彼のように未来の夢を形にして見せてくれる人は出てくるのだろうか?
彼のように芯の通った、未来の夢を見せてくれる人が。

夢を追って走り続けて、若くして亡くなったスティーブ・ジョブズのイメージは坂本龍馬にも重なる。

世界に進歩と夢を送り続けてくれたスティーブ・ジョブズに心から感謝したい。
走り続けてきた彼に、安らかな眠りが訪れることを、心から祈りたい。

そして、Apple の夢が現実に押し流されることに抵抗できる人が、Apple を継いでくれることを心から祈りたい。
Apple の力は、機械を作る力ではなくて、夢と未来を作る力なのだから。