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Takanori

たのしい、と、うれしい

これまで「研修では学ぶことが楽しくなければならない」という表現を何度も使ってきた。

このこと自体は問題はないと思う。

辛いことを我慢しながらやっていても、ろくな学びはできないのは考えなくても分かるだろう。

現実には、勉強はつらいもの、練習は耐えるもの、みたいな考え方がまだ世の中にはたくさんあるが、次第に淘汰されていくに違いない。
昨年から「勉強会(仮称)」というのを開催している。

その中で、学ぶには「楽しい」という感情が大切、ということを伝えるためにいくつかのグループワークを行った。
私は「楽しい」というキーワードが出てくればよいと考えていたのだが、「うれしい」に対する考察も行われた。

その結果「楽しい」は過程が「楽しい」であり、「うれしい」は結果的にできたら「うれしい」という分析がなされた。

それまでは私の中で「楽しい」でひとくくりにしていたのだが、勉強会のグループワークの結果によって分かりやすく整理された。
私にとってとても大きな成果であった。
講師として研修を進めていると、それこそ脂汗を流しながら苦労して課題に取り組むシーンがよく見られるようになる。
その課程は「楽しい」とはほど遠い。
だが、できたらきっとすばらしく「うれしい」だろう。

なぜそう思うのかといえば「できるようになりたいから」だ。
だから必死に苦労しながら取り組むのだ。
つまり、研修はこうやって作ればよい。

・楽しいことをする。
・楽しいことの中に学びを含める。
・楽しいけどできない経験をさせる。
・できないことをできるようになりたいと思わせる。
・できるようになるために努力させる。
・努力の結果できたことを認識させる。
・できないことを認識させ、できるようになりたいと思わせる。
以下は繰り返しである。

途中の過程にも「楽しい」を入れれば、「楽しい」と「うれしい」の連続だ。
「うれしい」がより強くなる「悔しい」も混じれば、さらによい。
さらに具体的に言えば、

・学んでもらいたいことを分析して
・楽しめる課題にし、
・それを楽しめるように導入して実施し、
・成長を実感させて、
・課題を自分達で見つけられる

ようにしていけばよい。
勉強会(仮称)では、この流れの中の「分析」と「楽しめるような導入」というのが今の課題になっている。
「分析」はロジカルシンキングがベースではあるが、アイデアも大切である。
「楽しめるような導入」というのは、場を把握した上で、感情に働きかけるようなスピーチの力が必要になる。
これまで何気なくやっていたことを、このように明確に分析できるようになったことは、私にとっての勉強会(仮称)の成果である。

「楽しい」と「うれしい」はその象徴的なことなのだ。

さて、その勉強会(仮称)であるが、そろそろまともな名前をつけてあげたい。
次の勉強会(仮称)で提案してみようかな。

Takanori

ハードディスク障害の顛末

2日ほど、パソコンが起動しなくなって対応をしていた。
パソコンのトラブルというのは、まぁ、いろいろあるのだが、起動してくれないことにはなにもできないので、データを失うことの次ぐらいに起動しないことは大問題である。

結果的には解決したのであるが、どうせなら次に同じようなことがあった場合に対応できるように、少し記録をまとめておこうと思う。

[障害発生]

Windows10にアップデートするかどうか迷いながら、まぁ、起動ディスクのバックアップを取ってから考えようとして、システムがはいったディスクと同じサイズの安価な3TBのハードディスクを入手し、バックアップを取ることにした。
Windowsがはいったディスクのバックアップを取るのに、Windows7のバックアップは使えない。
2TBを越えるハードディスクには対応していないからだ。

そこで、これまで通り、Acronis TRUE Image というソフトを使ってシステムディスクの「クローン」を作ることにした。
いざというときにも、そのディスクと入れ替えればシステムが起動する「はず」であるからだ。

すでに Acronis TRUE Image はインストールしてあったので、購入したディスクを接続し、クローンを作る作業を始めた。
何度か再起動をしながらクローンを作ってくれるので、その間はパソコンを離れて他の作業をしていた。

何度目かの確認時に、へんなメッセージが出て停止していた。
原因が分からず、できる操作を一通りしたあとに、やむなく、電源を落としてしまった。

あとから振り返れば、この時点で起きていたことは、システムディスクのクローニングに関係のないUSBの外付けディスクがつながっていることが障害になっていたようなのだが、そこでは気付かなかった。

クローニングなどの操作を行うときには、関係のないドライブなどはつながない、というのが原則なのであるが、その原則を忘れてしまったのが原因だ。
恐らくではあるが、これまでの実績から Acronis TRUE Image そのものの障害とは思えない。

そして、電源を投入したのであるが、起動ディスクが見つからない、というようなメッセージが表示され起動しなくなってしまった。

教訓は「原則を大切にしよう」である。
[調査]

このような場合に最初に確認しなければならないのが、データが保存されているかどうかであるが、パソコンが起動できないと当然ながら確認作業もできない。
他のパソコンにつないでみる、というのも1つの方法であるが、今後の作業のことも考えて古いハードディスク(1TB)を引っ張り出してきて、それにWindows7をインストールした。
そのハードディスクから起動し(これはなんなく成功)、障害を起こしたオリジナルのハードディスクと、クローンした先のハードディスクの中身を確認し、データが残されている(だろう)ことを確かめられた。
オリジナルにも、クローンにもデータがあるので、とりあえずクローンのハードディスクをパソコンに接続して起動を試してみたが、症状は同じだった。
どちらも起動できない。

これまで起動ができなくなったときには、MBR(マスターブートレコード)を書き直す、というのが基本的なテクニックだったが、今回はその方法を使えない。

なぜならば、3TBを越えるボリュームにWindowsをインストールするためには、UEFIという仕組みを使って起動しなければならないからだ。

問題は、私がUEFIの仕組みをよく知らないことであった。

UEFIはマザーボードに載っているプログラムと、ディスクのUEFI関連の情報が関連しながら動作することになっているようで、単純にMBRを上書きすればよい、という仕組みではない(というのを、今回いろいろと調べる中で初めて知った)。

調べてみると、回復用のコンソールを使う方法がいろいろ見つかったので、Windows7のインストールディスクを引っ張り出してきたが、回復コンソールまでたどり着けないことがあり、Windows8のインストールディスクを使うことにした。

教訓は「ちゃんと理解して使おう」である。
[対応]
回復コンソール(コマンドプロンプト)が起動できたら使う可能性があるコマンドはおよそ次の通りである。

diskpart
bcdedit
bootsect
bootrec

UEFIではEFIシステムパーティションにファイルが存在し、その中の \EFI\Microsoft\Boot フォルダに BCD というファイルがあり、そのファイルがおかしくなっていると起動できないらしい。

今回はパーティションが破壊されているわけでもなく、BCDファイルのような設定ファイルが壊れているだけだったと考えられたので、これらのコマンドを使いながらBCDファイルなどの復元を試みた。
コマンドの詳細なオプションなどは検索すれば出てくるのでそれを参照して欲しいが、とりあえず効果があったと思えるコマンドは次のようなものだった。

bcdboot c:\windows /v /s s: /l ja-JP /f UEFI

このコマンドを実行するためには、diskpart コマンドも使わなければならない。

なお、これらの対応は、クローン先のハードディスクに対して行った。
復旧できる方法を見つけたらオリジナルのハードディスクに同じ方法を試すためである。

だが、いろいろ調べて、何度やっても起動できない。

一度は、他のツールを使ってうっかりMBRを書き換えるような操作をしてしまい、上記のコマンドを使って復旧する必要があった。
UEFIではMBRを使わないので、へんな操作をすると事態をより複雑にしてしまう。

コマンドをいろいろなパラメータで実行してみたが、正しいコマンドかどうか自信の持てないときのほうが多かった。
UEFIの仕組みをきちんと理解していないからだ。
試行錯誤をしたのだが、ここでの試行錯誤が問題をさらに見つけづらくしていたかもしれない。

ここでも教訓は「ちゃんと理解して使おう」である。
[復旧]
いろいろ試してみたし、何度かUEFI(BIOS)を起動して起動ドライブの設定などを試していたのだが、その中に1つ思い込みがあった。
UEFIで起動しているはず(実際にGPTフォーマットになっている)なのだから、起動モードは「UEFI」である、というものである。

そんなことで起動モードを「UEFI」にしていたのだが、オプションの説明を見てもそれっぽいことが書いてあったのでまったく疑わなかったのだ。

だが、あるサイトの記述を参考に「非UEFI」にして起動してみた。

そうしたら、すんなりと起動してしまった。
あまりにもあっけなく起動したので、笑ってしまったぐらいだ。

UEFI の環境では、マザーボードとディスクが協調して動くので、これらの設定が合っていないと起動ドライブとして認識さえしてくれない。

もちろん、障害が起きたときのままでは起動できなかったので、コマンドを使ってディスクの設定を変えたことは意味があったはずなのだが、途中から起動できない理由が起動モードの設定が合っていなかったことになっていたらしい。
教訓は「思い込みは敵である、正しいはずというのは正しいとは言えない」である。
かくして、元通りの環境を手に入れることができ、データのバックアップも取れ、いざとなったらオリジナルのハードディスクに手を入れないで Windows 7 を新規インストールできるようにと買った 4TB のディスクが手元に残った。
UEFIの仕組みもまぁまぁ理解できたし、復旧用のツールも使えるようになった。

そして、対策をしているうちに、Windows 10 の無料アップデートの期間が終了してしまった。
アップデートするかどうかで悩まなくてよくなったのはいいのだが・・・なんか損をした気分ではある。

最後の教訓は「余裕を持って行動しよう」である。

Takanori

技術者が足りない

最近、あちこちに営業をさせてもらっているが、行く先々で「技術者が足りない」という話を聞く。

実際に足りないことは間違いないので、新しい人を入れたり、教育したり、という話がたくさんある。
だが、技術者が足りない、という話を聞いて私が強く思うことが一つある。
それは、技術者が足りないのではなくて、業界が、会社が技術者を潰してしまっているのではないか、ということである。
新入社員研修を実施したクライアントと、実施後数年経ってお話をさせていただくことがたまにある。

そこで聞く話の中に「○○さんが体調を崩して会社を辞めた」とか「○○くんが体調を崩して休職中だ」というような話が出てくる。
○○さん、○○くんというのは、新入社員研修の中でも「優秀だ」と思っていた人であることがとても多い。
こういう流れである。

・もともと優秀でモチベーションも高い新人が入ってきた。

・即戦力として現場に投入しよう。

・現場でも仕事を早く覚えるのでできることが増えていく。

・できることが増えていけば、任せられる仕事も増えていく。

・優秀で責任感も高いので、がんばって対応しようとする。

・そして知らないうちに限界を超えている。

・体調を崩す。
これがどれだけもったいないことか。

採用にいくらのコストをかけたのか。
研修にいくらのコストをかけたのか。
配属されてからお金を稼げるようになるまでいくらのコストがかかったのか。

そして、これから会社のために利益を上げられるようになる、というタイミングで、会社を辞めたり休職したりしてしまう。

新入社員を潰してしまうこと、それも優秀な社員から潰してしまうことが、どれだけ会社の損になっているのかを考えてみてもらいたい。

コストを考えると一千万円単位の損失になるに違いない。
将来、会社にもたらしてくれるはずだった利益を考えたら、それは簡単に億単位の金額なるだろう。
そして、体調を崩した社員も、コストをかけて辞められた会社も、そのスキルを失うクライアントも、誰も得をしないという、Lose-Lose-Loseの関係なのだ。

私は、新入社員を潰してしまう部署は、会社に対する背任行為を行っている、と言ってもよいと思っている。

新入社員をつぶしてしまう部署は、毎年何千万もの損失を出している部署なのだ。
新入社員研修で、どんなにコミュニケーションスキルや技術力を身につけさせて現場に出しても、現場で使い潰されてしまうのでは意味がない。
解決策は一つしかない。

各部署で人を育てる力を持つことだ。
サーバントリーダーシップを発揮できる人をリーダーにすることだ。
できる技術者ができるリーダーではない。
技術者のスキルとリーダーのスキルは別物なのだ。
技術者がリーダーになる場合には、リーダーのスキルを身につけなければならない。
技術者がプロジェクトマネージャになるためには、プロジェクトマネージャのスキルを身につけなければならないのと同じことである。
だが、今の多くの会社ではそうなっていない。

だから、無理がきく技術者がリーダーとなり、自分と同じように無理がきくだろうと考えて、技術者を使い潰していく。
技術者が足りない、という前に、せっかくの優秀な技術者候補を減らさない工夫をし、技術者に育てなければならないのではないだろうか。

Takanori

技術研修は座学ゼロの夢を見るか

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というSF小説がある。

フィリップ・K・ディックの作品で、映画「ブレードランナー」の原作である。

私の好きな作品の1つであるのだが、今回のタイトルはこの作品のタイトルのもじりである。
私の仕事のウェイトの多くを占める技術研修(特にIT企業の新入社員研修)であるが、昨年より「座学ゼロ」を目指す研修を実施している。

以前から、技術研修における座学については「必要悪」だと考えていた。
言うまでもないが、「悪」ではあるが「必要」だというのが「必要悪」の意味である。

でも、よく考えれば「必要」なものは「善」であるはずである。
「悪」なものは「不要」にできるはずだ。

なぜこんなことを考えたかというと、ある新入社員研修で、座学の間に涙目になる受講生がいたからだ。
理由を聞いてみると、眠いのを耐えるためにシャープペンシルで太ももを刺していた、という答が返ってきた。

起きていようとしてくれることはうれしい。
でも、技術研修なのに、起きていることに全力を使っている時間に意味はあるのか。

どう考えたって、そんなことに意味があるわけはない。
眠かったら寝て、目が覚めてから集中して聞けばいい。
そして、もっとよいのは眠くならない研修にすることなはずだ。

少し前にこんなサイトを見た。
「はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く」
http://shoichikasuo.hatenablog.com/entry/2014/11/22/121010

これと同じである。

よかれと思って教えているつもりなのだが、嫌なことを強いてるだけなのだ。
結局、その出来事で「技術研修では座学は必要悪だ」なんていうのも指導する側の勝手な思い込みなのだ、と気付いた。

それからは、どうやって座学を楽しくするか、また、短くするか、を一生懸命考えて実践した。
それは、ストーリーをきちんと作って伝えること、短く適切な本質を伝える説明を構築すること、使う言葉を適切に選ぶこと、などの形となっていった。

だが、どんなに少なくなっても「悪」が「善」に変わることはなかった。
できるのは「悪」をなくすことだけだったのだ。
昨年の研修の担当者の方が、私に素晴らしいチャンスをくださった。

研修時の雑談の折り「座学をなくす研修に挑戦してみたい」という話をしたら「やりたいことがあるなら、うちの社員で試してみてください。」と言ってくださったのだ。
なかなか言えることではないだろう。

もちろん「だめだったらちゃんとフォローしてくださいね」とは言われたが、そんなことは言わずもがなである。
こんなチャンスはなかなかない。
使わせてもらうしかない。

どうしたら座学をなくせるかを考えた。

見つけた手法は簡単なものだった。
中途半端に実践するとぐだぐだになる可能性があるので方法は書かないが、結果は素晴らしいものだった。

今までやってきた座学って何だったんだろう、なぜ座学を「必要悪」だとか言いながら実施してきてしまったのだろう。
そんな反省が浮かぶほど、座学ゼロの技術研修の密度は高くなった。

もちろん、結果も伴う。

座学ゼロ、は、技術研修でも夢ではない。
現実であり、効果も高い。

実際の効果を見た今は、このことを自信を持って言える。

座学しか方法がない、と思うときには、教えるべき内容への私の理解が足りないか、課題を考える努力が足りないか、使える時間が足りないか、のいずれかである。
それでも「座学がない技術研修なんてあるわけがない」と考えるのであれば、それはそれで仕方がない。
いかなる場合でもそうであるが、私には人の考えを強制的に変える力はない。

だが、もし興味を持ち、可能性を感じるのであれば、ぜひ挑戦して欲しいと思う。

facebook で「未来教育、育成チーム」というグループを作った。
https://www.facebook.com/groups/1511502422450217/

まだ作ったばかりで活動はしていないのだが、ここで「座学ゼロ」につながる学びの場作りについて実践につながる議論をしていきたいと考えている。
多くの「座学ゼロの技術研修」の夢を見る方と仲間になり、夢を現実に変える活動をしていきたい。

これからの日本のために。

Takanori

圏外旅行

最近「圏外旅行」というのがあるそうだ。

携帯の電波が届かないところに旅行することらしい。

どれだけ圏外をなくすかに尽力している各キャリアが聞けばがっくりきそうな話ではあるが、気持ちはよく分かる。

私も携帯電話を持ったばかりの頃、フリーランスであったこともあり、携帯電話による連絡が取れないことが営業的に致命傷だと思っていたときには、それこそ携帯電話を枕にして寝ていたこともあるぐらいだ。
こうなると、強迫神経症と言ってもいいだろう。

だから、コミュニケーションが取れて当たり前、取れなければ不安になる、そういう心理はよく理解できる。

ある記事では「できるビジネスマンはメールを1時間以内に返してる」なんていうのも見たことがある。
しかし、すべてのコミュニケーションをリアルタイムで取る必要があるのだろうか。

そんなことはないだろう。

ないから「圏外旅行」なんていうものが存在できるはずだからだ。
とはいえ、実際には、圏外まで行かなくても、単に携帯電話の電源を切るだけでも同じ事はできるはずである。

では、なぜわざわざ「圏外」まで行くのだろうか。
明確な理由は分からないが、やっぱり自分でコミュニケーションを絶つことが怖いのではないだろう。
リアルタイムではないコミュニケーションを知らなければなおさらそうなのかもしれない。

だから「圏外」という言い訳が必要なのだ。
メールやSNS、またLINEなどの普及により、リアルタイムのネットワーク経由のコミュニケーションの比率が非常に高まっている。
若い世代にはそれしか知らない人もいるだろう。

いつでも誰とでもつながっていてあたりまえ。
それが今の状況なのだ。

だが、それは非常に疲れることである。
携帯の電源を切る、という簡単なこと。
これが今の時代、とても難しいことになっている。
今の時代に必要なのは、自分でいつでも携帯電話の電源を切れるような意識なのかもしれない。

Takanori

大事なことは論理的に考えようよ

川内原発の再開の議論のニュースが流れている中で、おかしいな、と思えることがいくつか(いくつも?)あるので、少し疑問を呈すなどしておきたい。

宮沢経産相が「万一事故が起きた場合は、国が責任を持って対処すると約束する」と言ったと伝えられている。
ただ、その宮沢経産相は「せんだい」ではなく、「かわうち」と読んでいたという恐ろしく初歩的なミスもしている。単なる言い間違えなのかもしれないが、意識の低さを露呈している、というのも、あながち間違いではないだろう。
それに、そもそも、福島の原発の対処ができているか、という問題もある。

何を意図して「責任を持って対処する」と言っているのかわからないが、少なくとも福島で避難している人がちゃんと自分の土地に戻れるようにできてから言うべき言葉なのではないだろうか。

発言全体に、何かを論理的に考えたとは思えない軽さが感じられる。
約束する、と言っているのだが、具体的に何をするのかがちっとも分からない。
『原子力規制委員会の田中俊一委員長は7月、川内原発の審査書案を公表した後の会見で「安全だということは申し上げません」と発言。原子力規制庁も「100%安全とは言えない」との見解を地元での説明会などで示してきた。』

これは科学に基づいた判断であり、そもそも100%安全と言っていた福島原発があのような事故を起こしたのだから、100%安全などという言い方ができないのはあたりまえである。

にもかかわらず、

『安全性について会見で問われた岩切市長は「福島で起きた津波や地震、原発事故に対応するのは十分、100%と言っていいと私は信じている」。
台風や地震、火山の噴火が同時に発生するような規制委の想定を上回る複合災害の危険性については、「現段階では考えることはない」と話した。』

だそうだ。

100%と言う根拠が「信じている」というのは、どういう頭から出てくるのか不思議でさえある。

さらにまた想定を上回ることは考えなくてもよいらしい。
事故が起きたら「想定外だったから仕方がない」とでも言うのだろう。
まったく進歩がない。

「現段階では」と付け足しているが、現段階以外のいつにそれを考えるのだろう。
火山の噴火の影響は、予兆があれば燃料棒を運び出すなどする、でOKになったらしい。
御嶽山の噴火もそうだが、火山の噴火に関してはまだまだ分からないことがある。

火山学者が以下のように言っている。

『小山教授は大会の講演で、審査で焦点となった巨大噴火の予測について、「現代火山学はほとんど知見を持っていない」などと説明。規制委は監視を強化すれば前兆の把握は可能と判断したが、「楽観的過ぎる」と指摘し、噴火の数年前に予測することは不可能との見方を示した。』

燃料棒の運び出しには数年単位の時間がかかるそうである。
数年前に噴火の予兆を確実にとらえなければ、大規模噴火の際に打つ手がないということだ。
予兆を確実にとらえる方法はないと学者が言っているのにもかかわらず、それを元に燃料棒を運び出すことでOKとなっているのだ。
科学軽視以外の何物でもない。
なぜ政治家の話には、こんなに「論理性」がないのだろう。

小学生に説明したって「おかしい」と言うに違いない論理(?)を強弁して押し切り、いざ問題が起きれば「想定外」と言い捨て誰も責任を取らない。

論理的に安全に対して科学的に強く主張すると思っていた原子力規制委員会も、そうではないところがちらほら見えてきた。
経済や、国防などなど、さまざまな理由から原発を動かしたい人達がいるのは理解できる。
だが、説明するのに、せめて理解ができるぐらいの言葉は使って欲しいものである。

今のままでは、小学生を納得させることさえ難しい。
ましてや全国民を「安全」と納得させるのは、どう考えても無理だ。
政治家の話を聞けば聞くほど、怪しいものに思えてくる。
原発が絶対だめ、とは思っていない。

だが、被害が起きて、それを人が制御できず、多くの人が不幸になるのなら、それは使わない方がよい技術なのだろうと思う。

Takanori

蒸気機関車と電車

蒸気機関が発明、実用化されて産業革命が起き、世界が変わった。

蒸気機関車の時代が長く続いたが、送電網を初めとする電化のインフラが整備され、電車に変わっていった。
その際に、新しい技術になじめず蒸気機関にこだわった会社や技術者はそこで行く手を阻まれただろう。

物事には大きな変化が訪れるときがある。

蒸気機関車から電気機関車への転換もそうだし、歯車式の計算機から、リレー、真空管、トランジスタと移り変わってきた計算機の歴史もそうである。
その他にも探せばたくさんあることだろう。

そして転換するときには、必ず何らかの抵抗がある。
その技術でずっと生きてきた技術者や、新しいものになじめない人達が、移り変わることを受け入れられないからだ。

それまで何年何年も長い年月をかけて蓄積してきた知識、磨いてきた技術が役に立たなくなってしまうのだから、あたりまえだろう。
だが、抵抗しても無駄である。
蒸気機関車が電車に取って代わられたように、歯車式の計算機が電気式の、また電子式の計算機に変わってしまったように、物事は変わるべくして変わっていく。

しなければならないのは、一刻も早く、その新しい技術に取り組み自分のものにすることだろう。
蒸気機関車の技術者は、列車の基本的な知識はある。
物理的な知識、材料に対する知識などもあるだろう。

それを活かして、新しい技術に取り組めば、より有利に学ぶことができるに違いない。
だから、移り変わることを拒むのはもったいないことだ。
研修を含む教育の世界でも大きな「移り変わり」が始まっている。

以前は誰もが疑うことをしなかった、講師が説明をし受講生が眠気をこらえてノートを取る、というような勉強の形が既に否定され始めている。
移り変わっていく先は、参加型の教育であり、モチベーションを高めて自主的な学習をうながす教育である。

この流れは、もう止まらない。
だが、研修の世界では、まだまだ蒸気機関車が走っている。
未だに蒸気機関車しか見たことがない人も多い。
そして、走り始めた電車から目をそらしている人もいる。

一方で、走り始めた電車にいち早く乗り始めている人がいる。

移り変わりが顕著になった段階で、きっと大きな差が出るだろう。
蒸気機関車も電車も、レールの上を鉄の車輪で走る、という意味では同じだ。
箱が連なっているという意味でも同じ。
運転以外の車内の運用も同じ。

駆動する力だけが違うのだ。
ぜひ、今までの研修しか知らない人に、これからの時代の「参加型、自主的な学習」をベースにした研修に「移り変わって」もらいたいと、心から願っている。

しがみついても乗り遅れるだけなのだから。

Takanori

リスク管理の一般論

世の中にはさまざまなリスクがある。

例えば道を歩いているだけでも、段差に躓いて転んだり、自転車にはねられたりするリスクがある。
ひょっとしたらどこかのアニメのように、上から植木鉢が振ってくるかもしれない。

ビジネスの現場でもリスクに対する対応は重要なことであり、およそ全てのことにリスクというのはついて回る。

リスクには何らかの対処が必要であるが、それには次の4種類の対応方法があるとされている。

回避、低減、移転、受容の4つである。

回避というのはリスクそのものを避けることである。
道を歩いている例であれば、道を歩かない、という選択をすることになるだろう。
その場合、歩いていた目的である買い物ができなくなったりはするが、道を歩くことによるリスクは回避できる。

低減というのはリスクの発生する可能性や影響を低くすることである。
身体を鍛えて転んだりするリスクを回避したり、安全確認を慎重に行う手順を守ったり、ヘルメットをかぶったり、などということになる。

移転というのはリスクを外部に任せてしまう方法である。
例えば、買い物に行く代わりに通販ですませてしまえば、運送業者は道を通行するこのによるリスクを負うが、自分にはそのリスクはなくなる。
その代わり、運送費という形でリスクを肩代わりしてもらうことになる。

受容というのはそのまま受け入れる、ということである。
転んだらしかたがない、そうそう転ぶことはないだろうし、怪我をしてもすりむくぐらいだろう。
植木鉢が降ってくることは滅多にないから、おきてしまったらあきらめよう、である。

今の時代、ある程度の組織であれば、このようなリスクに対する対応というのはきちんと考えているのが当たり前であり、リスクが大きければ大きいほど、影響度などを考えて適切な対応をする必要があるというのが、常識である。

そして、リスクの対応には、そのリスクの評価が欠かせない。
リスクの影響自体がなければ対応の必要がないし、影響が大きければそれだけしっかりリスクの対処が必要になるからだ。

このような話は、以前に内部統制にかかわった際に徹底されていたのだが、なぜこんな話を改めてしているかというと、原発の事故に際してこのようなリスクのマネジメントが有効に行われていないと感じられたからである。

震災時の福島第1原発の事故でも証明されたように、原発の事故のリスクは甚大な影響を与える可能性がある。

何万人もの生活を破壊し、広大な面積の土地に人が住めなくなり、巨大な企業がつぶれ、経済にも何兆円もの損失を与え、将来にどのような影響が出るかもはっきりしないなどということが、甚大な影響でないわけはない。

このようなリスクについては、とうてい「受容」という選択肢はないだろう。
他のことがいくらよくても、起きたら仕方がないよね、では済ませられない。

移転も不可能である。
こんな事態を移転させられるところはどこにもない。

低減の方法は多い。
安全基準を徹底して(真摯に)実行することもそうであろうし、作業員の練度を上げる訓練もよいだろう。
監視の目を多くすることも有効かもしれない。

それでも、あくまでも低減であって、事故が起きて甚大な影響を与えるリスクは残る。

少なくともこのような事故において「想定外」なんていう言葉を免罪符のように使っている組織では、どこまで低減できたか、などという話をするだけばかばかしいレベルであるので、大きく体質が変わらない限り、低減の方法ではかなり大きなリスクが残ると考えてもよいだろう。

では、回避はどうだろうか。
これは簡単である。

原発をやめるだけである。

廃炉の問題、放射性廃棄物の問題は残るが、少なくとも冷却できなくなった放射性燃料が爆発したりする事態は回避できるだろうし、甚大な影響を与えるようなこともなくなるだろう。

このように考えていくと、事故のリスクをなくすためには回避という対処しかないように、私には思える。

だが、実際には「低減」という対処方法が選ばれている。
関係する人にとっての目先の大きな利益があるからだろうが、これでは残念ながら、将来にわたって同じような事故がおきない、と誰も断言することはできないし、おそらく、また起きるであろう。

なぜこんなことになっているのだろうか。

たぶん、答は簡単である。

最初のリスクの影響評価が冗談みたいなものだからだ。
そして、原発問題を考える前提に「組織の財務状況からも動かさなければいけない」という、リスクとは関係ないものがはいっているからだ。

原発には「安全神話」という言葉があった。
安全だから緊急処置の訓練も、緊急設備の動作確認も必要ない。
逆に、安全神話を守るために、そんなことはしてはいけない、というような話にもならない状況にあった。
安全なのだから、リスクの評価自体が不要であり、低減の対策も必要ない、と。

あえてリスクから目を背けるような体質の組織のリスク管理がまともであるはずはない。

これだけのリスクがある。
それに対してこのような備えがある。

このようなリスクが考えられる。
こういう試験を行って安全であることが確認できた。

そういうことを積み上げていって、初めて低減の効果があるはずだが、報道を見る限りは「そんなリスクはない」と言っていることのほうが多い。

例えば、「活断層ではない」と主張することよりも「活断層であっても大丈夫な仕組みがある」というのが正しい姿勢であろう。
活断層とされていない断層が動くリスクだってあるし、影響の甚大さを考えたら「活断層ではないから」などはなんの根拠にもならないだろう。

「重要な構造物は地震では壊れない」と主張するなら、実証実験をするなりして確認しなければならない。
設計時に想定されていない揺れが何度も観測されている中で、壊れない証明や検証は不可欠ではないだろうか。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と根拠もなく繰り返しているだけでは、相変わらずリスクの評価もできていないし、対処もできてないと考えざるを得ない。

運が悪ければ日本の居住可能な領域が半分になる、もしくはなくなるかもしれない、というような甚大なリスクに対する評価と対処がこのレベルであることに、私は半分あきらめにも似た気持ちを持っている。

政治家と官僚と経済界で原発の再開の動きが強くあるが、目先の利益ではなくちゃんとしたリスク管理の観点から考えてみてはどうかと、切に思う。

Takanori

技術研修に座学は必要ない

研修シーズンということもあり、新人研修も含め、ここのところ何件かの技術研修を担当させていただいている。

さまざまな方に受講生になっていただいているのだが、中には、社会人経験の長い方もおられ、新人研修(ちゃんと受けなければ、という教育がなされている)とは緊張感が違う研修も担当させていただいている。

新人研修では、所属会社から「ちゃんと受講するように」というプレッシャーが掛けられているので、少々まずい研修であったとしても、一生懸命に受講生がフォローしてくれたりするので、長期間である、ということを除けば、比較的楽なことが多い。

だが、社会人経験の長い方のおられる研修ではとてもシビアである。

良い研修、悪い研修の反応が、とても直接的に返ってくるのだ。

そのようなシビアな研修で評判が悪いのが「座学」である。

もちろん、私が受講生であっても座学は好きではない、というか苦手である。
座学のみの研修では、たいてい眠くなるか、自分でテキストを読んで調べているものだ。

中には「もっと教えてもらいたい」という反応を返してくれる人もいるのだが、実際のところ、それでは成長してもらえない。

今年の新人研修でも、座学と自主学習の両方を行ってみた。
そして、どちらがいいか聞いてみた。

答えは「自主学習」であった。

こう書いてくると、私の技術に対する説明が拙いから、と考える方もおられるだろうが、実際のところはそれほど下手な説明ではないはずである。
少なくとも経験のある講師仲間からうなっていただけるような説明をすることが可能であるし、たぶん、へたくそ、と言われるほど悪くはないはずである。

だが「座学」はおもしろくない、と言われる。

分かっていたのだ。

座学がおもしろくなく、学べることも限定的であることは分かっていたのだ。

だから、座学を少なくし、自分で学ぶ時間をできる限り多くしてきた。
座学で理解することは期待しない、と言いつつ、演習の時間を多くしてきた。

だが、これまでは座学をなくせなかった。

理由は簡単である。

私自身が「技術系の研修には座学が欠かせない」という常識を持っているためであり、座学をしないことが恐かったためである。

私自身の思い込みと心理的な弱さのために、受講生に身にならない「座学」を押しつけてしまっていたにすぎない。

今年の新人研修では、私の考え方を理解していただける人事の担当者の方と巡り会うことができた。
「試したいことがあったら、うちの社員で試してください。ただし、失敗したらリカバリーはお願いしますよ。」とまで言ってくださった。

ここまで環境が整ったら、挑戦するしかない。

何をするか分かり、それを変えるチャンスをいただいたのだ。
これを活かさなければ罰があたるだろう。

すでに、新人研修以外の研修では、座学をなくし、先日の初心者向けのプログラミング言語研修では、発表に対するコメント以外の技術的な説明を排している。
結果は、好評であり、結果も出ており、座学とはなんだったんだろう、という気持ちにさえなっている。

研修で受講生が大きく化ける時がある。

今年は私が化けてみたい。

Takanori

技術と知識の可能性

先のブログで、コミュニケーションシートを取得するための仕組みを作った、という話を書いた。

その仕組みを作るのに、PHP、SQL、VBAなどという技術(というかプログラミング言語など)を利用した。

もし、私がこれらに対する知識を持っていなければ、不安を抱えたまま、それを軽くすることもできずに、言われたままの作業をすることになったのだろう。
だが、知識があれば自分で動くことができる。

これが知識、技術の力だろうと思う。

知識、技術は間違いなく自分の可能性を広げてくれる。
知識、技術の量が多ければ、それに応じて自分の可能性も大きくなっていく。

広く深くが理想であるが、なかなか1つのことを深く学ぶのも難しい事で、どうしても時間がかかる。

だから、自分に使える時間をいっぱい使って、知識と技術を身につけていきたい。
この知識と技術はIT技術に限ったことではない。
幅広く、より多くのことを知り、マスターすることで、自分の可能性が広がっていくはずなのだ。

時間を上手に使えるようになりたい。
そして、時間がもっと欲しい、と思う。