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Takanori

カタバミ戦記 その弐

カタバミとの戦いも新しいフェーズを迎えたようである。

掃討戦である。

芝が駆逐されてしまっているような主戦場での戦いはほぼ終わった。
私の勝利である。
「完全駆除は難しい」カタバミとはいえ、所詮は草である。スキルを身につけ、本気になった私の敵ではない。

まだ散発的な抵抗はあるが、それは見つけ次第たたけばよい。
多くの場合、大地のエネルギーを吸い上げる根を残したことが抵抗を許した原因であり、見晴らしのよい主戦場での抵抗は、高確率で長い根の発見につながるので逆に好都合である。

だが、掃討戦はむずかしい。

敵は、茂っている芝の中に姿を潜めているのだ。
ゲリラである。
俯瞰的に見てもなかなか見つかるものではない。

どうするか。

地道に探すしかない。
地べたに這いつくばるようにして、芝の根をかき分け、カタバミの葉、カタバミのほふく茎を探し出すのだ。

近づいてよく見ると、今まで気にならなかったような、緑のカタバミの葉や、他の雑草もよく見えるようになる。
それらを適宜抜きつつ、縦横無尽に這った芝をかき分け、芝に隠れるゲリラとなったカタバミを探すのだ。
芋虫と遭遇する恐怖におびえつつ、カタバミの姿を求め、芝をかき分ける。

「草の根分けても探し出す」という言い方がある。
この言葉は、きっと芝の中でカタバミと戦ったことがある人が考えたに違いない。
見つけてからもやっかいである。

敵の最大の武器であるほふく茎をたぐろうとしても、味方であるはずの芝に阻まれてしまうのだ。

まわりの芝ごと抜き去ってもよいのならば話は簡単なのだが、それでは本来の目的を見失ってしまっていると言わざるを得ない。
直接の目的はカタバミの殲滅なのだが、そもそも芝が浸食されてしまうから戦っているのだ。
私が芝を浸食してしまっては元も子もない。

だから、芝とカタバミを瞬時に見分けるスキルをフルに活用して芝の中からカタバミを見つけ、指先でさわれば見分けられるスキルもフルに使って、芝を避けつつカタバミのほふく茎をたぐるのだ。
そして、幸運にも長い根を発見できれば、芝のほふく茎の隙間に慎重に指を差し込みながら、カタバミの根を抜き去る。

芝とカタバミが錯綜するところでは、ほふく系を見失い根までたどり着けないことも多い。
間違って、芝を抜いてしまうことも増えてくる。
芝にすれば、流れ弾にあたったようなものだろう。

だが、芝もきっと分かってくれるに違いない。

私が苦労をして芝のために戦っていることを。
将来の芝の繁栄のために、戦い続けていることを。

歴史的に見ても、勝ちきることは不可能なのが掃討戦である。
ある程度戦ったら、あとは警備活動に委ねるしかないのだろう。

その日まで、あと少しがんばろう。

Takanori

課題発見、解決

課題の発見、解決、という研修を行うことがある。
そもそも「課題の発見、解決」そのものが目的であることもあるし、コーチング研修の中に含めることもある。
管理職研修の中にも含まれるし、新人研修においても求められることもある。

つまり、課題発見、またその解決は、全てにおいて大切なことであり、それができずに困っている人が多いということだ。
なぜ困るのか、といえば、簡単に言えば「すぐ目に見える問題だけを取り扱おうとするから」ではないかと考えている。

実際には「すぐ目に見える問題」というのは本当の原因ではなく、本当の原因からいろいろあって表面に表れてきた「現象」であることがほとんどなのだ。
例えば、クライアントから「ちゃんと思った通りに動かない」などといったクレームが来たとする。
クレームが来たから、製品の不具合かと思って調べても完全に動作する。
よくよく聞いたら、購入時の担当者が言った言葉が間違っていて、クライアントはその言葉通りの動作をしない、というクレームをあげていた、なんてことが普通にある。
この場合、本当の問題は、担当者が製品を正確に理解していなかったことにあり、解決策は担当者への正しい教育ということになる。

これなどはまだ簡単なほうである。

こんな例もある。

「最近入ってきた新人がなかなか成長しない」という問題を抱えているIT系の会社の上司がいた。
グループワークで意見交換をしながら、質問によりさまざまなことを考え、深めていくと次のような結論が出た。

「新人のレベルに対する、受け入れ側の思い込みが本当の問題である。」

その部署では数年にわたって、学生時代に専門教育を受けてきた、または趣味によりプログラムを書いてきたことにより、技術的には経験者といってもよいレベルの新人が配属されてきた。
そのようなことが続く中で、その部署では「新人」のレベル感が醸成されていった。
ある年に、新人研修で初めてプログラミングを学んだ新人が配属された。
すでに醸成されていたレベル感から比べると、当然ではあるがその新人のレベルは低いことになる。

このような経緯で、配属された新人がなかなか使えるようにならない、という問題意識になってしまったのだ。

実際に話を聞けば、配属された新人は、自ら努力をし、なんの問題もない新入社員である。
それどころか、自発的な動きもできる優秀な人材であった。

だが、思い込みによりそれが問題になってしまったのだ。
他にも「部下から報告がない」という問題を分析していったら、報告を受け取れていなかった自分が問題だった、というようなことは、もう当たり前と言えるほど普通にあることである。
問題分析の際に「自分に問題があるかも」と思うと、意識的、無意識的にそれらの問題から目を背けてしまうため、いつまでたっても真の問題にたどり着けない。
同じようなことはどこにでもある。
クレームをもらったら、思い込みや自己保身を排除した上で、何が原因なのか徹底的に考え分析をしなければ、本当の問題にはたどり着けない。
本当の問題にたどり着けないまま対処をしようとしたら、それは「臭いものには蓋」的な対処になってしまい、本当の問題をより見えにくくしてしまうだけである。

一度見えなくなってしまった問題はなくなることはなく、他の形で現象となって出てくる。
課題発見、解決といえばロジカルシンキングなどがあげられることが多いが、実際には、思い込みや自己保身の排除、問題を発見しようとする意識付けのほうが効果を上げられることが多いように感じている。
ロジカルシンキング分野の分析方法はそれらがなければ、ただの形にしかならない。
問題解決は問題が適切に見つかれば考えられる。

だから「課題発見」を以下に効果的に学んでもらえるかというのは、これからの私のテーマの1つである。

Takanori

すぎるすぎる

言葉使いは時とともに変わっていくもので、変化を押しとどめることはできない。
同じ言葉を使っていても、意味が変わっていくこともある。

私はそのような言葉の変化はあるものだ、という認識はあるので、あまり気にしないようにしてはいるのだが、それでも、ときどき気になる言葉がある。

最近(?)気になる言葉の一つが「やばい」である。

なんでもかんでも「やばい」で表現してしまうようでは、日本語の表現力を発揮できない、というか言葉による表現をあきらめてしまっているように思える。
主として口語で使われるので、ノンバーバールの表現方法により細かいニュアンスはあるのだろうが、すごい、すばらしい、たいへんだ、かわいい、などなど、さまざまな言葉があるのだから、それをちゃんと使い分けようよ、と思ってしまう。

それともう一つ気になる言葉がある。
「すぎる」
である。

これは口語による表現ではなく、さまざまなメディアが文字ベースで競って使っている。

曰く「美人すぎる」「美味しすぎる」「有名すぎる」「劇的すぎる」「大好きすぎる」などである。

「すぎる」には元々「何々を越えて」という意味がある。

それを考えると次のような文章はこう考えるべきだろう。

「美しすぎる海上自衛官の歌姫」
http://matome.naver.jp/odai/2136775531560867901
「海上自衛官の歌手であれば、せいぜいこれぐらいの美しさだろうがその勝手な基準を越えて美しい」

「武蔵小杉で美味しすぎるおすすめラーメン10選」
https://www.travelbook.co.jp/topic/2017
「武蔵小杉のラーメンはこのぐらいのレベルだろうが、それを越えて美味しいラーメン10選」

香川「劇的すぎる」 ロスタイムに決勝ゴール
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1575745.html
これなどは何を基準にして「すぎる」のかよく分からない。

実際の所は、すでに「すぎる」が使われすぎていて「ちょっと」「とても」みたいな言葉が「すぎる」に置き換わってしまっているのだろう。
私の個人的な感覚では「すぎる」というのはとても強い言葉である。

「痛すぎる」ならば「むちゃくちゃ痛いんだろうな」と感じるし、「辛すぎる」と聞けば「地べたに這いつくばって起き上がれないような状態」を想像してしまう。

「とても美しい歌姫」「素晴らしく美味しいラーメン」「劇的な」でよいではないかと思ってしまう。
必要なら他の言葉を付ければよいが、すべてに「すぎる」が付くのは違和感がある。

インパクト感を表すのに便利なのでメディアなどで多用されているのだろうが、表現力がないんですよ、と宣伝しているように思うのは私だけであろうか。
仕事柄、言葉を選ぶ習慣が付いてしまっている。
この一言を発したら、相手がどういう気持ちになるだろうか、何を考えるだろうか、を常に意識している。

逆に、相手の言葉を一生懸命受け取る癖も付いてしまっている。
だから「すぎる」と付けられてたいしたことがないと「なにを大げさな」と思ったりするのだ。

こういうのはスルーすることができればいいのかもしれないが、それをしてしまっては自分が言葉を使うときにもぞんざいになったりしそうで怖いし、やはり細やかな表現力を持った日本語という言葉は大切にしたい。
こんなのは「日本語の単純化を心配しすぎる講師」とかになるのだろうか。

Takanori

ミニラグビー交流会のマネジメント

三郷ミニラグビー交流会が、参加してくださったスクールの皆さんの協力もあり、無事に終了しました。

まずは、参加していただいた各スクールの方々にお礼を申し上げます。

三郷ミニラグビー交流会は、毎年、20数スクール、2000人以上が参加し120ゲーム前後が行われる、実質1スクール主催のイベントとしてはかなり大規模な大会です。
9月中旬から各スクールに参加の意向をうかがい、代表者会議、レフリー講習会、備品確認、各種打ち合わせや組み合わせの作成などを行い、前日には荷物の積み込み、当日の開催と撤収、という流れを、スクールの指導者と他のスクールの方のご協力をいただいて実施していきます。

そんな三郷ミニラグビー交流会ですが、今回は、交流会と私自身の関わりについて書いてみたいと思います。

私が三郷ミニラグビー交流会の担当ととなったのは2003年でした。
それから既に10年以上やってきましたが、私にとってはとても大きなマネジメントの学習をする場となっています。

担当を引き継いで最初の数年間は、引き継いだときの資料がほとんどなかったこともあり、交流会の運用をできるだけルーチン化することを考えていました。
作業のための資料を作り、細かい段取りや手順を考え、担当を配置決めて細かい指示をし、滞りなく交流会が終わるように、と必死だった記憶があります。
その頃には、参加してくださるスクールの方々との面識もなく、お客さんをもてなさなければならない、問題があってはいけない、という気持ちが強く、なんとか交流会を無事に終わらせることができるように、と祈っていました。

数年経つと、ある程度作業の流れが決まってきて、資料もそろい、ルーチン化できるようになってきました。
そうなると、多少の余裕も出てきて、今まで見えなかったことが見えるようになります。
それは「指示していないことも行われている」ということでした。
そして、そのおかげで、交流会が無事に実行できていたのです。

それまでは「私が担当なんだからやらないと」という気持ちがとても強く、逆に言うとエネルギーをかけていた分「私が交流会をうまく回しているんだ」と思い上がっていた部分があります。

実際にはとんでもない話です。
私の見えないところで、現場にいる人たちが一生懸命に自分で考えて作業をし、そのおかげで交流会が実現できていたのですから。
それが見えない私はチームマネージャーとしては「だめな人」でしかないでしょう。

それに気づいた頃「自律分散」というキーワードを知りました。
そして、交流会の運用がまさに「自律分散」であること、そしてその威力を理解しました。

その後の私は「自律分散」について積極的に取り組みました。
少しずつ、自分でやっていた作業を減らし、担当となっている人にお任せし、問題があると思うところだけ意見を言わせていただき、担当がいないようなことがあれば私がやらせてもらう、という形にしていきました。

そうしたら、何のことはありません。
毎年いくらかの問題があったとしても、ちゃんと交流会が開催され、終わっていくのです。
いくらかの問題は、私が必死になっていた頃にもあったもので、任せたから発生した問題でもありません。

もし、何か固定的な問題があるとすれば、私自身が考えたとおりにはならないこともある、ということぐらいです。
そしてそれは、交流会の実施という目的に対しては本質的な問題ではありません。

もちろん、気になるときはあります。
あそこはどうか、ここはどうか。
ですが「任せて任せきること」という人材育成で私が実感している原則は、組織の人を動かす上でもまた同じように大切な事なのです。

最近では、参加してくださっているスクールの方々にも運営に協力していただいています。
準備や撤収の作業もそうなのですが、スクールの待機場所の調整や、レフリーの入れ替えなども、「空いているところを適当に使うから大丈夫だよ。」「こことここのレフリーを入れ替えたいので、お互いに調整しておいたからよろしく」というレベルで勝手にやってくれているのです。
何年もかけてつながってきた人間関係がベースにあるからできることなのだと、これも実感しています。

10数人のコアチームがあり、最終的には2000人を越えるチームが交流会の成功という目的に対して意識を持って動いてくれる。

それが今の三郷ミニラグビー交流会というプロジェクトなのです。
交流会を10回以上経験し、ある程度は細かいところまで意識できるようになってきた今であれば、管理型のマネージメントもやればできるだろうと思います。
ですが、その時の限界は、私個人の限界に直結します。創造的な発展も、チームとしてもつ力を全て発揮することもできないでしょう。
自律分散型のチームの限界は、私個人のそれよりもはるかに高いのです。
今年は、日本ラグビー協会副会長も見学に来られ「これはいい」と言われていたと後から話をききました。

Cチーム内のグラウンド内コーチをなくすという試みもよい成果を残したと思います。

フェアプレイ賞をゲーム後に決めるという習慣も、他府県に広がっているという話もうかがいました。

「まだまだこれからできることがある。」

10年以上三郷ミニラグビー交流会の担当をさせてもらってきて、やっとそう思えるようになってきました。

ただ実施することだけが目的ではなく、価値を生み出すことができるイベントを。

私自身が発想するわけではありませんが、それを目指しているスクールの団長や他の方々の「やりたいこと」を支援できるようなチーム運営ができたらよいな、と思います。

Takanori

ベターを選択し続ける

今年の新人研修を実施している研修会社において、研修における講師としての宣言のようなものを書くことになり、そこで私は「ベターを選択し続けること」と書いた。
いろいろな解釈ができると思うが、私の意図したところを一部の方にのみ伝わることではあろうが書いておこうと思う。

研修を実施していると、さまざまな選択をする必要に迫られる。

たとえば、技術演習を続けるか、ヒューマンスキルを伸ばすためのグループワークを実施するか、などである。
それ以外にも、どこまで説明するか、何を説明するか、資料はどのようなものを作るか、など選択の連続であると言ってもいいだろう。

そのときに、ベストを選択することができれば最もよいのだろうが、それぞれの時点でのベストを「今」自分が知っている、と思うこと自体が傲慢なのだろうと思う。

私ができることは「今」の自分が思いつく限りのよい方法を、考えて考えて、その上で選ぶことだけなのだ。
そして、それは、自分が持つ選択肢の中での「ベター」に過ぎないが、それを貫くことが、「今の自分ができる」ベストになる、と考える。

それぞれの選択の段階で「これがベスト」と思った段階で成長が止まるし、傲慢になる。
ベストと思ってしまったら、それ以上を考えなくなってしまうだろう。

これからも常に「ベスト」を選んだとは思わずに、できる範囲のベターを選び続けることを目指したい。

ベターを選び続ける際には、自分の中の妥協したい気持ちとも戦わなければならないし、さまざまな調整だったり準備だったりが必要になったりもする。
だが、純粋に「受講生のためのベター」を考えることが、私のしなければならないことなのだ。

すべての選択における「ベスト」には生涯たどり着くことはないだろう。

だから、ベターを選び続けること、またその努力を続けることだけが、私のできることなのだ。
「よりベストに近いものを求めて、よりベターな選択をし続けること」

これが、私の今年の宣言の意図である。

Takanori

センター試験廃止

NHKで1979年からの共通一次、1990年からのセンター試験と長い間続いてきた、大学入試のための学力評価試験が廃止されることになる、というニュースが流れていた。

共通の試験がなくなる、わけではなく、実施内容や方法が変わるそうである。

大きなテーマは「知識の活用」だそうだ。
知識を暗記することが主要な要素であったセンター試験の見直しである。

例えば、国語と英語をあわせた言語という分野の問題が出るなど、複数教科にまたがる問題を出すとか、記述式問題を含めるとか、英語では「聞く・話す・読む・書く」などの評価をするために外部試験を活用するなどである。

他にも、年に複数回の試験を実施する、点数ではなく段階的な評価とする、なども変更点である。

また、小論文・面接など多様な形での評価を求める、というのも制度の違いとしてあげられていた。
これらの変化は良いものであると思う。
だが、いろいろと物議を醸したゆとり教育も、ちゃんと機能すれば「良いもの」であったはずだ。
ゆとりにより生まれた時間を、きちんと考える教育の時間にすることができれば、ゆとり教育の目指したものを実現できたはずである。

だが、できなかった。

原因は、現場がそれに対応できなかったことだろう。
今回の試験制度の変更を、ニュースの中で学習塾の担当者が「教育が変わらなければならない」と言いつつも「理想論」と表現していた。

私なんかは、まだまだ本来目指すものとはちがうと思うので、このレベルで理想論と言ってしまう教育業界にも問題があるとは思うが、今まで求められていた「暗記をいかに効率よく行うか」に「考えなければならない要素」が入ることは、パラダイムシフトとも言える出来事なのだろう。
ゆとり教育の時代とちがうのは、学力評価試験があるために必然的に何らかの対応が求められてしまうことだろう。
分からないから放っておけ、という対応ができなくなるのだ。

時間が経てば「受験テクニック」に落ちていってしまうのかもしれないが、できれば本当に考える教育に舵を切るきっかけになって欲しいと思う。

ゆとり教育における「現場が対応できなかった失敗」を繰り返さないためにぜひとも、新しい試験制度に対応する「現場の対応する力」を育ててもらいたいと思う。

そのための方法論は既にあるのだから。

Takanori

ロボットカメラマン

SOLOSHOT2というおもしろい製品があった。

詳細は以下から見ていただきたいが、デジカメやデジタルビデオカメラと三脚の間に付けて、デジカメのコントロールを自動的にしてくれる製品である。

http://soloshot.com/

タグを持っている人を自動的に追いかけて撮影してくれるし、タイプラプス撮影もできるし、星を追いかけることもできるらしい。

メーカーでは、ロボットカメラマン、という言い方をしているが、まさにその通りである。

使い道としては、例えば、研修の時に自分の動画を撮りたいと思えばきっと役に立ってくれるはずである。

それ以外にどのような用途があるか、と聞かれると困るところではあるが、いろいろ試したくなるのは間違いない。

ラグビーでもプレイヤーは無理にしてもレフリーならとれるだろう。
また、幸いなことにSONYのカメラとも相性は良さそうだ。

きっと日本でも発売されるだろうから、買えるようになったら買ってみようと思う。

経済的な理由、時間的な理由、なかなか自由にならないところではあるけれど、好奇心をなくしたらそれまでだから。

Takanori

大事なことは論理的に考えようよ

川内原発の再開の議論のニュースが流れている中で、おかしいな、と思えることがいくつか(いくつも?)あるので、少し疑問を呈すなどしておきたい。

宮沢経産相が「万一事故が起きた場合は、国が責任を持って対処すると約束する」と言ったと伝えられている。
ただ、その宮沢経産相は「せんだい」ではなく、「かわうち」と読んでいたという恐ろしく初歩的なミスもしている。単なる言い間違えなのかもしれないが、意識の低さを露呈している、というのも、あながち間違いではないだろう。
それに、そもそも、福島の原発の対処ができているか、という問題もある。

何を意図して「責任を持って対処する」と言っているのかわからないが、少なくとも福島で避難している人がちゃんと自分の土地に戻れるようにできてから言うべき言葉なのではないだろうか。

発言全体に、何かを論理的に考えたとは思えない軽さが感じられる。
約束する、と言っているのだが、具体的に何をするのかがちっとも分からない。
『原子力規制委員会の田中俊一委員長は7月、川内原発の審査書案を公表した後の会見で「安全だということは申し上げません」と発言。原子力規制庁も「100%安全とは言えない」との見解を地元での説明会などで示してきた。』

これは科学に基づいた判断であり、そもそも100%安全と言っていた福島原発があのような事故を起こしたのだから、100%安全などという言い方ができないのはあたりまえである。

にもかかわらず、

『安全性について会見で問われた岩切市長は「福島で起きた津波や地震、原発事故に対応するのは十分、100%と言っていいと私は信じている」。
台風や地震、火山の噴火が同時に発生するような規制委の想定を上回る複合災害の危険性については、「現段階では考えることはない」と話した。』

だそうだ。

100%と言う根拠が「信じている」というのは、どういう頭から出てくるのか不思議でさえある。

さらにまた想定を上回ることは考えなくてもよいらしい。
事故が起きたら「想定外だったから仕方がない」とでも言うのだろう。
まったく進歩がない。

「現段階では」と付け足しているが、現段階以外のいつにそれを考えるのだろう。
火山の噴火の影響は、予兆があれば燃料棒を運び出すなどする、でOKになったらしい。
御嶽山の噴火もそうだが、火山の噴火に関してはまだまだ分からないことがある。

火山学者が以下のように言っている。

『小山教授は大会の講演で、審査で焦点となった巨大噴火の予測について、「現代火山学はほとんど知見を持っていない」などと説明。規制委は監視を強化すれば前兆の把握は可能と判断したが、「楽観的過ぎる」と指摘し、噴火の数年前に予測することは不可能との見方を示した。』

燃料棒の運び出しには数年単位の時間がかかるそうである。
数年前に噴火の予兆を確実にとらえなければ、大規模噴火の際に打つ手がないということだ。
予兆を確実にとらえる方法はないと学者が言っているのにもかかわらず、それを元に燃料棒を運び出すことでOKとなっているのだ。
科学軽視以外の何物でもない。
なぜ政治家の話には、こんなに「論理性」がないのだろう。

小学生に説明したって「おかしい」と言うに違いない論理(?)を強弁して押し切り、いざ問題が起きれば「想定外」と言い捨て誰も責任を取らない。

論理的に安全に対して科学的に強く主張すると思っていた原子力規制委員会も、そうではないところがちらほら見えてきた。
経済や、国防などなど、さまざまな理由から原発を動かしたい人達がいるのは理解できる。
だが、説明するのに、せめて理解ができるぐらいの言葉は使って欲しいものである。

今のままでは、小学生を納得させることさえ難しい。
ましてや全国民を「安全」と納得させるのは、どう考えても無理だ。
政治家の話を聞けば聞くほど、怪しいものに思えてくる。
原発が絶対だめ、とは思っていない。

だが、被害が起きて、それを人が制御できず、多くの人が不幸になるのなら、それは使わない方がよい技術なのだろうと思う。

Takanori

ウガンダからの手紙

先日、ブログにウガンダで研修事業を立ち上げている方からコメントをいただいた。

研修の作り方において、このブログや「新人研修物語」を参考にしていただいている、とのことであった。

その方とは、ブログに返信させていただき、メールのやりとりをして、スカイプでお話をさせていただいた。

ウガンダの現状、教育の問題など多くのお話を聞きながら、私の経験から提案できることをお伝えさせていただいたのだが、とてもとても楽しい経験であった。

正直、ウガンダという国も、アフリカの現状も私はよくは知らない。
ニュースで流れていることぐらいはおおよそ知ってはいるが、現地で感じることとは違うであろう。
だから、その中にいる方から、現地の状況をうかがうことはとても楽しい。

研修の仕事にはわくわくがある。

新人研修では、終わって現場に行く時に、この新入社員の人達がどれぐらい成長してくれているか、とドキドキするし、わくわくする。

講師育成研修を始めるときには、どれだけたくさんの仲間が作れるか、講師という仕事の楽しさを伝えられるかに、わくわくする。

そして、今回は、著名なコンサルティング会社におられた方から興味を持っていただけたことと、ウガンダという国が発展する一助を担えるかもしれない可能性にわくわくした。

教育というのは素晴らしいものだ。
人と組織、そして国までも良い方向に向かわせることができる可能性を持っている。

自分の仕事にもそうであるが、ウガンダで奮闘している方のためにも、より学びたい。
より学んで、より良い学びの場を提供できるように、またそのノウハウも提供できるようになりたい。
自分のしていることが、人の、組織の、国の成長に役に立つかもしれない。

なんと素晴らしいことではないか。
日本でも、国外でも、まだまだ参加型、グループワーク型の学びの形を知らないところは多い。
今まで何度も研修を受けてきているはずの方でさえ、こんな研修は初めて、と言われたりすることがある。

もっともっと知ってもらいたい。

洗脳などの手段に頼らなくても、意識を変革できる方法があることを。
意識を変革し、内的モチベーションとして継続できる方法があることを。
教えるよりも、効果的に学んでもらう方法があることを。
そして、定着させるための効果的な手順もあることを。
これからもさまざまな研修に携わり、経験を積み、知ってもらうことを続けていきたい。

Takanori

林檎の行方

日本の文化の一つの大切な要素は「雅(みやび)」である、と私は思っている。
同じことをするのにも、ただ「する」だけではなくそこに上品さ、優雅さを求める。
茶道もそうだし、華道もそうだろう。

iPhoneというか、Appleの製品には、その「雅」な感じがたくさんある。
どうせ道具なのだから、したいことができさえすればいいじゃないか、ではないのだ。

できればいいじゃないか、で作られてきたのが、WindowsでありAndroidだと思っている。

日本ではできるかどうかだけではなくて、上品に、優雅にできることに意味を見いだす人が多いのだろう。
昔からAppleの製品のシェアが高いのは、そんなところに原因があるのではないかと思う。

今度出た iPhone6 plus はそのあたりの「雅」を捨て始めたような気がする。電話をするのに片手で苦労はしたくない。
両手でなければ扱えない端末は電話ではない。タブレットだ。

上品で、スマートで、雅であること。
そのためには、多くのブログラマが苦労するのも厭わないし、安易に流行に乗ることもしない。

Appleの魅力は、網羅ではなく、意志を持った集中だと、私は思っている。

今の状況は、以前ジョブズが抜けた後、節操なく機種を増やして落ちていった頃に重なるように思える。

ジョブズがいなくなった後、これからのAppleはどこに向かうのだろう。