Archive for 自分自身

Takanori

カタバミ戦記 その弐

カタバミとの戦いも新しいフェーズを迎えたようである。

掃討戦である。

芝が駆逐されてしまっているような主戦場での戦いはほぼ終わった。
私の勝利である。
「完全駆除は難しい」カタバミとはいえ、所詮は草である。スキルを身につけ、本気になった私の敵ではない。

まだ散発的な抵抗はあるが、それは見つけ次第たたけばよい。
多くの場合、大地のエネルギーを吸い上げる根を残したことが抵抗を許した原因であり、見晴らしのよい主戦場での抵抗は、高確率で長い根の発見につながるので逆に好都合である。

だが、掃討戦はむずかしい。

敵は、茂っている芝の中に姿を潜めているのだ。
ゲリラである。
俯瞰的に見てもなかなか見つかるものではない。

どうするか。

地道に探すしかない。
地べたに這いつくばるようにして、芝の根をかき分け、カタバミの葉、カタバミのほふく茎を探し出すのだ。

近づいてよく見ると、今まで気にならなかったような、緑のカタバミの葉や、他の雑草もよく見えるようになる。
それらを適宜抜きつつ、縦横無尽に這った芝をかき分け、芝に隠れるゲリラとなったカタバミを探すのだ。
芋虫と遭遇する恐怖におびえつつ、カタバミの姿を求め、芝をかき分ける。

「草の根分けても探し出す」という言い方がある。
この言葉は、きっと芝の中でカタバミと戦ったことがある人が考えたに違いない。
見つけてからもやっかいである。

敵の最大の武器であるほふく茎をたぐろうとしても、味方であるはずの芝に阻まれてしまうのだ。

まわりの芝ごと抜き去ってもよいのならば話は簡単なのだが、それでは本来の目的を見失ってしまっていると言わざるを得ない。
直接の目的はカタバミの殲滅なのだが、そもそも芝が浸食されてしまうから戦っているのだ。
私が芝を浸食してしまっては元も子もない。

だから、芝とカタバミを瞬時に見分けるスキルをフルに活用して芝の中からカタバミを見つけ、指先でさわれば見分けられるスキルもフルに使って、芝を避けつつカタバミのほふく茎をたぐるのだ。
そして、幸運にも長い根を発見できれば、芝のほふく茎の隙間に慎重に指を差し込みながら、カタバミの根を抜き去る。

芝とカタバミが錯綜するところでは、ほふく系を見失い根までたどり着けないことも多い。
間違って、芝を抜いてしまうことも増えてくる。
芝にすれば、流れ弾にあたったようなものだろう。

だが、芝もきっと分かってくれるに違いない。

私が苦労をして芝のために戦っていることを。
将来の芝の繁栄のために、戦い続けていることを。

歴史的に見ても、勝ちきることは不可能なのが掃討戦である。
ある程度戦ったら、あとは警備活動に委ねるしかないのだろう。

その日まで、あと少しがんばろう。

Takanori

闘い

私は争いごとは好きではない。
もちろん、負けるよりは勝ちたいという気持ちはあるが、なんかの競技会に出て誰かと競う、というのは苦手である。

だが男には戦わなければならないときがある。
今がその時だ。

相手はカタバミ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/カタバミ

別のページには「「カタバミ」は、良く見かける多年草の雑草で、成長が早く、繁殖力も強い雑草です。
除草剤が散布できない場合は、完全駆除は難しい雑草です。」と書いてある。
http://shibafu.sakuraweb.com/blog/1585.html

実際にうちの猫の額ほどもない庭でもたいへんな勢いで繁殖し、芝の一部を枯らしてしまった。

このまま放っておいては、うちの芝はカタバミ、それも緑でない「アカカタバミ」に浸食され、芝でなくなるだけではなく、緑でさえなくなってしまう。

このようにして、アカカタバミに売られたケンカを買うしかない状況に追い込まれ、やむなくカタバミと戦うことになった。

だが、敵は「完全駆除は難しい」相手である。
闘いは、案の定、苦戦した。

実は昨年からカタバミの浸食に悩まされており、最初はよく調べることもなく表面の葉をむしっていたのだが、まったく効果がない。

あたりまえである。
敵はほふく茎で生息エリアを広げていくのだ。

葉っぱをちぎられてもほふく茎から芽を出せるので、あっという間に再生してしまう。
再生どころか、芝生を浸食する面積もどんどん増えていく。

かくして、昨年は抵抗らしい抵抗もできずに、一方的に負けてしまった。
今年に入ってから、昨年の惨敗の記憶と共に再び戦いを挑んだ。
まずはきちんとした調査である。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というではないか。

そこで分かったのは、カタバミはほふく茎(匍匐茎、地面を這って伸びる)で増えるということだ。
ならば、そのほふく茎を取り去らなければならない。

かくして、芝生の貼っている地面をかきわけ、その中からカタバミのほふく茎を探し出す、という想像以上に地味な戦い方の作戦となった。
発見したほふく茎をちぎれないようにたぐって取り去っていくのだ。

すると、あるとき、ほふく茎が長い根につながっているのを発見した。

掘り起こしてみると、前述のように、地表のか弱き様子から想像できないような太く長い根があったのだ。
敵のエネルギーの源はこの大地の全てを吸い上げようかという根にあるに違いない。

「ハートのかわいい葉っぱね」とか「綺麗な小さな黄色い花が咲いたよ」なんて言っている場合ではないのだ。
敵はかわいさで油断させ、裏では大地のエネルギーを吸い上げるために、こんな太い根を地中深くに伸ばしていたのだ。
腹黒いとは思うが、敵ながらあっぱれな作戦である。

この発見をもって作戦が変更された。

カタバミの葉があるところのまわりをさぐり、芝が張り巡らされてる隙間からほふく茎を探し出し、それをたぐりながら長い根を探し出し、掘り出す、という、複雑きわまりない作戦へと変更せざるを得なかったのだ。

最初の問題は、ほふく茎を芝の中から探すことだ。
ただ見ているだけでは、芝に隠れて見えないのだ。

そこで、技を編み出した。

手で地面をこするのだ。

すると、枯れた芝などが取り除かれ、必要最低限の視界が確保される。
その視界の中で、芝とほふく茎を見分けて、ちぎれないように細心の注意をもってほふく茎をたぐるのだ。

運がよければ、そのまま敵のエネルギー源の太く長い根にたどり着く。
たどり着いたら、芝を避けながら、地面深くに潜り込んでいる根を、途中で折らないように掘り出し引き抜く。

だが、いつも根までたどり着けるわけではない。

芝と絡み合ったほふく茎をたぐるのは想像以上にハードな作業なのだ。
見失ったり、芝に絡んでいるところで切れたり、ほふく茎じたいも途中で根を出して地面にくっついているのでそこで切れたりする。

このような地味にして複雑な作戦を繰り返し実施した。

一つの根を掘り返しても、ふと見るとすぐ脇にまた別のほふく茎があって、ため息をつくことも多い。
作戦に熱中して、ふと気が付くと腰が痛くて立ち上がれなくなっており、あえなく作戦中断ということも多々あった。

だが、ここ数日、地道な作戦を続けた成果が現れてきた。

まず、スキルが身についた。

生い茂る芝の中にあるカタバミのほふく茎を、ほぼ一瞬で見分けられるようになった。

それだけではない。

指先でつまんだ感覚で、芝なのか、カタバミのほふく茎なのかが分かるようになった。
その指先の感覚を頼りにほふく茎をたどり、根までたどり着ける比率が高くなった。

このスキルを武器にカタバミと戦い続けたところ、ほぼほぼ制圧できたようである。

指先は、度重なる戦いの傷跡が残りがさがさになっている。
だが、そんなのは小さなことである。

大切なのは「完全駆除は難しい」といわれたカタバミに売られたケンカを買い、勝利できそうだということだ。

まだまだ完全制圧できたとは言えない。

ふとバトルフィールドに降りて見下ろすと、そこにはカタバミの小さな葉があったりする。

今でも、目をつむるとカタバミのほふく茎がまぶたの裏に浮かぶ。
だが、この戦いもあと少しだ。
私の勝利は近い。

ほぼ制圧できた状態で、化学兵器の「芝の除草剤」の導入も行った。
「完全駆除が難しい」敵を相手に、油断は許されないのだ。

勝敗の結果は、この夏に出るだろう。

芝が勢力を盛り返せば私の勝ち。

一部でもカタバミエリアを確保されたら私の負けである。

Takanori

グループワークによる研修の作り方

私の研修では、IT系の技術研修であってもグループワークを多用する。
なぜなら、その方が学習効率がはるかに高いからである。

私はグループワークにより研修を構成することに慣れてしまったので、もうそれほど難しいことだとは感じないのだが、はじめて取り組む人には難しいことだろうとは思う。

難しいと思う人に少しでも役に立てるように、今回はグループワークによって研修を考える際の考え方を簡単に記したい。

グループワークにて構成する研修では、次のような流れで考える。

1・学んでもらいたいことを分解、分析する。
2・学んでもらいやすい流れを考える。
3・気付いたり考えてもらえる課題を考える。
4・課題を実施した際の展開をシミュレーションする。
5・シミュレーションの結果から課題を修正する。
6・適切なインストラクションを考える。

そして実施する。

7・グループワーク中の様子を観察し、問題あれば修正する。
8・グループワークの結果から学んでもらいたいことを伝える。
9・結果を検証して記録に残す。

実施が終われば振り返りである。

10・発表、振り返り、強調など

1の「分析」がグループワークの成果を決める上で重要である。
例えば「話せるようになる」を研修の成果として考えた場合には、「話せない原因は何か?」「その原因は本当に唯一の原因なのか、他にはないのか?」「原因を克服、もしくは他の方法でカバーするにはどうするか?」など、必要な要素に分析し、対策を考える。
この時点で的を外してしまえば、グループワークの意味がなくなってしまう。
実際には、分析ができないようでは、教えること自体もままならないはずである。

3の「課題を考える」はアイデア勝負である。
瞬間でアイデアが浮かぶ場合もあるし、そうでない場合もある。
そうでない場合には、1日も2日も3日もかかることがあるが、ここで手を抜くと期待した成果が上がらない。
既存の課題をカスタマイズしたり組み合わせて使うこともある。
分析を元にした自由な発想がここでは重要である。
グループワークの実施には、実施に向けてのインストラクションが欠かせない。
6の「インストラクション」ではそれを検討する。

グループワークの種類や、参加者の人数や状態によっても導入インストラクションの方法は変わってくるが、だいたいの流れはある。

1・最初に質問をして興味を引き出し、質問を繰り返しつつ興味をより対象に向ける。
2・希望などとからめて目的を与えモチベートする。
3・グループワークの内容を正確に伝える。
必要ならば、何度か言葉を変えつつ繰り返す。
4・質問を受け付け、曖昧な点をなくす。
5・納得できる時間の設定を行う。
6・焦らすようにしつつ開始。

これは私が無意識に行っていたことを簡単に分析した結果である。なので他にもパターンはあるのだろうが、最もポピュラーで応用が利くように思える。
10の「発表、振り返り、強調」をきちんと行うことで、グループワークの成果を活かせる。
この「グループワークで出てきたもの」のハンドリングには分析の結果、また、分析に利用した知識などが必要になる。リアルタイムでの判断も必要になるので、神経を使うところである。
だが、ここがうまくできないとグループワークだけで研修を構成することは難しい。
他にも、1の前にどんな話しから入るのか、なども重要な要素である。
結局、精度の高い分析スキル、雰囲気を作れるスピーチスキル、場とのセッションを維持するスキル、グループワークの状態の観察スキルなどの各種スキルが必要になるのだが、これらをクリアしてぴったりはまったグループワークができると、驚くほどの成果が上がる。

その成果を見てしまうと、もっと広く、もっと深く、を目指す学びの場を創りたいという欲求が湧いてくる。
先日はインプロの要素を取り込んだグループワークにも挑戦した。
結果は、設計、実施した私が驚くようなものだった。

やはり原理原則は裏切らない。
基本に則って、ひとつひとつをきちんと実施することが、最大の成果につながるのだというのを強く感じることができた。

不安の中のチャレンジではあったが、チャレンジしたことによって、少し「広く」を進めることができたように思う。

Takanori

健康大事

2016年11月の後半から一ヶ月半ほど、頭痛に悩まされてきた。

後頭部の刺すような痛み、前頭部の重い痛みなどいろいろな痛みが出て、ひどいときには身体の向きを変えることさえためらわれた。

下に落ちているものを拾うためにかがめば痛むし、寝ている状態から立ち上がっても痛むし、逆に横になるときにも痛む。
笑っても、トイレで力んでも痛むし、咳やくしゃみなど論外である。

結局、こんな状態で1ヶ月半ほど過ごした。
痛み始めた当初、治したいので病院に行ってCTを取るところからはじめた。
頭蓋骨の中の問題だと、下手すると死んでしまうのでまずは調べてもらったのだが、特に異常はない、とのことだった。

次に、整体に行って首の周りを見てもらったのだが、施術してもらっても、状態に変化は感じられるものの、痛みがなくなるわけではなかった。

そんな中でも仕事の打ち合わせなどに行っていたのだが、あるとき打ち合わせに参加された方から「顎関節症なのではないか?」という指摘をいただいた。
その方の奥様が、やはり頭痛などで悩んでいて、いろいろ調べた末に顎関節症が原因であると分かった、とのことだった。

「顎関節症ではないか」という指摘をいただいたときに、なるほど、と思った。

なぜかはよく分からないのだが、頭痛が起きている場所が問題ではない、それ以外の部分に問題があるのだ、と強く感じられたのだ。

それからは、歯医者に行ってかみ合わせを見てもらったり、アレクサンダー・テクニークという身体の使い方を調べたり、顎関節症の矯正、身体全体の矯正などに行ったり、普段の姿勢をよくすることに心がけたり、関連すると思われる部位のストレッチを心がけたりした。

また、プチ断食を行って食事の量を減らし、体重も5Kgほど減らした。
どれが功を奏したのかは分からないが、今年に入って、急に楽になる日が出てきた。
それまでは痛みが怖くて歩く程度の運動もしたくなかったのだが、1月3日には歩く気になって、買い物のついでに1時間半ほど歩いてみた。

すると、なにかモードが変わったように楽になった。
まだ、少し痛みが出るときはあるのだが、今までとは全く違う。
本当に治ったのかどうかはしばらく様子を見なければわからないが、なんとなく大丈夫な気がする。
頭痛が原因で、1ヶ月半ほど自分の身体と習慣に向き合った結果、姿勢、食生活、習慣などなど、気をつけなければならないことがたくさん見えてきた。
ダイエットは続けなければならないし、正しい姿勢を維持するための筋力も鍛えなければならない。
食生活、運動習慣も変える必要がある。
ストレッチの習慣化も大切だろう。
頭痛はつらい経験だったが、自分を見つめ直すいいきっかけになった。

健康オタクにはならないと思うが、自分自身の身体を見つめる機会を増やしていこうと思う。
そして、自分自身の身体を維持するためのトレーニングも意識的に行い習慣化していきたい。

Takanori

「努力は夢中に勝てない」

ある方の Facebook のタイムラインに、表題の言葉が書かれた額の画像が流れていた。

「努力は夢中に勝てない」
元陸上選手の為末さんの言葉だそうだ。

この言葉はすごい。

人を育てる我々のような人間が創りださなければならない環境を、ひと言で表してしまっている。
私はよく「講師にできるのは環境を創ることだけ」という言い方をしている。

受講者の代わりには学べないし、丁寧に説明すれば必ず理解してもらえるわけでもない。
学んでもらうため、理解してもらうためには、受講者自身が考えて理解しなければならずそれ以外の方法はない。
より多くを理解してもらうために必要なのは「学びたくなる環境」であり、それが「夢中になれる環境」であれば、さらによい。
ひたすら課題をこなすことを求めているような学びの場では、課題をこなすことが目的となっていく。
努力を強いても、人は成長するだろう。
みんなが努力もしないでそっぽを向いているよりはよっぽどましだ。
だが、強いられた努力が楽しくなければ、研修が終わることで安心し、研修が終わってからの継続は望めないし、研修中の自主的な学びにもつながりにくい。
夢中になれる環境かどうかを見分けるのは簡単である。
受講者が「課題をやりたい」と思うか「課題をやらなければならない」と思うか聞いてみればいい。
「やりたい」と言えば楽しいのだろうし、「やらなければならならない」と言うのなら、努力を強いているのだろう。
夢中になれる研修では、研修を終わりたくない、もっと続けたい、という声が出てくる。
努力を強いられる研修では、やっと終わった、という感想になる。
「やりたい」と思うためには、その課題に対して、取り組むモチベーションがなければならない。
課題に取り組むことが「自分の役に立つ」というのももちろんモチベーションになるが、「いやだけど役に立つから」というのでは「夢中」にはならない。
役に立つ、ではなくて、楽しい、嬉しい、などの感情が元になったモチベーションが「夢中」につながる。
「夢中」であれば学びが自主的になり、幅も広がり、深さも深くなる。
そのような学びは、研修が終わっても続き、結果的に定着する可能性も高くなる。
研修において「定着」は大きなテーマである、というよりも、定着しない研修には意味がない、ぐらいに大切である。
定着のためには「夢中」になれる学びの場が一つの答なのだろう。
いつまでも学び続けたい、という気持ちで終われる研修のためには、夢中になれるモチベーションが大切だ。
夢中になれるモチベーションのためには、楽しい、嬉しい、という気持ちが欠かせない。
人は遊びの時には夢中になる。
趣味に没頭してるときはみんな夢中だろう。

だから、学びが遊びになればいい。

私はそう考える。

「努力は夢中に勝てない」のだから。

Takanori

2016年度の新人研修を終えて

2016年度の新人研修の報告書を書き上げ、まだ若干の資料整理や提出物などが残ってはいるが、長かった新人研修が終了した。

今年も、講師育成から新人研修に携わることになり、1月中頃から6月初めまで、という長期戦であった。

講師育成では、講師を育てる講師の育成の役割を持つことになり、「先生の先生の先生」という自分で言っていてもこんがらがりそうな仕事をすることになった。

研修を実施中は受講者への影響を及ぼさないようにするため、ブログなどへの投稿は基本的に行っていないので、久しぶりの投稿になるが、今年の新人研修について振り返ってみたい。
●講師育成について。

講師育成というのは、私が行っている研修の中でももっとも難しいものの一つである。
対象が社会人経験を積んで自分の考えをしっかり持っている方であること、伝えるべき内容が複雑で多いこと、結果を出すまでの期間が限られていること、などが難しい理由であるが、これらを乗り越えるためには最新の注意と、錬ったカリキュラムが欠かせない。

昨年、一昨年と講師育成に取り組む中で、私のスキルを棚卸しし、人に伝えられる形に整理して、学べる形にしてきたことを、なんとか、直接講師育成に携わる方に伝えようとしたのだが、結果から言うと難しかった。

一部は講師の講師に伝えられたとは思うのだが、新人研修の講師になる講師候補の方に十分なことができたか、というとやはり足りなかったと言わざるを得ない。

理由はいくつかある。

一つは、圧倒的に時間が足りなかったことである。

先に「細心の注意」というように書いたのだが、その内容が実際にはそう簡単に伝えられるようなことではなかった。
観察のスキル、心理的な反応に対する知識と経験、メッセージを伝える方法など、それぞれがとても複雑なことだが、細心の注意、というのはそれらの複雑なものが絡み合っているものだからだ。

「細心の注意」を分解して1つ1つ訓練しながら学ぶには、やはり時間が圧倒的に足りなかった。

二つめは、私が昨年までに実施したカリキュラムの意図をきちんと伝えられなかったことだ。

「錬ったカリキュラム」についての話になるが、コメントの質やインストラクションの方法など、私が実施した内容をそのまま実施することは難しいことと、講師の講師の方がやりたいこと、やれること、などがあり、私が実施したカリキュラムの流れの実施ではなく、講師候補の方に本質的な部分を伝え切れていなかったように感じる。

3分間スピーチのような簡単なカリキュラムでさえ、テーマの設定の方法、コメントについて注意すべきことなどを整理して伝え、納得してもらうことはできなかった。
結論として、講師育成に関しては、私が直接担当させてもらうならば2ヶ月から2ヶ月半ほどあれば、最低限必要なことは伝えられるだろうと思う。
最低限の必要なこととは、テキストを読み解いて意図を考えカリキュラムを組み立てる力、講師として前に立って話す力、「受講者のために」という意識、などである。

だが、講師育成の講師を2週間で育てることは難しい。
必要な事を伝えるためのスキルを整理し、それを伝える手段を考えたときに、あまりにも短いのだ。

今年の講師育成では直前でそのような指示をもらったため、とりあえずはじめてはみたものの、やはり足りない時間には勝てなかった。
●新人研修

今年は複数社が混在する会場での実施であった。
これまで、新人研修では一社の新入社員だけが集まっている環境でしか研修を行っておらず、複数社混在の環境での研修は初めての経験であった。

会社毎に新入社員に傾向があり、これまでよりは幅広い対象だったこと、会社のイベントで一部の受講者が1日抜けることがあるなど、多少勝手が違った部分はあったが、結果的に昨年までの研修と同じような雰囲気になってくれた。
複数の会社であるという要素も、それなりにうまく盛り込めたと思う。

会社の壁がどれぐらいあるものか心配していたのだが、研修の最初から意識して壁をなくすように心がけた結果、それぞれの会社の個性がよい方向に生きたまま、会社の壁を越えた交流が生まれ、受講者が仲良くなってくれ、グループワークを通してよい学びの場となった。

一社ではないので、企業の担当者と頻繁に情報交換を行い方針を決める、ということはできなかったが、伝えたいことは受講者の方々に受け取ってもらえたようである。

全体としては、ほぼ想定していた負荷をかけながら伝えたい内容を盛り込むことができたのではないかと思う。

もちろん、課題もいくつかあり、振り返ると「もう少しこうしていたら」という反省がいくつか思い浮かぶ。
中には、私の判断ミスや、手が回らなかったことが理由であるものもあり、それらは素直に反省しなければならない。

特に、進み方の遅い人に対するアプローチの方法や、最初に乗り遅れた感じのある人へのアプローチには、反省点が多い。
進み方が遅いことには、いろんな理由があり、講師を含む周りへの質問ができるかどうか、するかどうかという個性も関係してくる。
原因や個性、考え方を見極めて適切な声をかけつつ、受講者自らの行動を妨げない、というのはなかなかむずかしい。

これらの対応の精度をあげることは、これからも課題になっていくだろう。

とはいえ、半年弱の新人研修関係のプロジェクトを終了し、とりあえずは一安心である。
少し休みを取りつつ、次の動きを考えていきたい。

Takanori

私にしかできない?

講師育成研修でよく言うセリフの1つに「私の真似をしないでください。」というのがある。
私が実施しているグループワークを体験すると、自分でも試したくなるようで、グループワークをハンドリングする練習をせずに研修の現場で実施する方が出てくる。
それは危険だよ、と戒めるためである。

私ができることを見て「長谷川さんは長い間やっていたからできるんだ」と言われることもある。

講師仲間から「別格だ」と言っていただけることもある。
こう言うと、私は長い時間をかけてとんでもないことができるようになっていると思われるかもしれないが、実は研修の仕事を始めた最初からこのようなことをしている。
もちろん、最初よりは今の方が上手にはなっているが、決して研修の仕事を長年行わなければできないことをしているわけではない。

私が最初からある程度認められるようなことができた原因は確かにある。

ラグビースクールにおけるコーチングに関する知識があったこと。
技術的なレベルがそれなりのものであったこと。
話すスキルがある程度はあったこと。

これらがその原因である。

だが、技術レベルは普通に開発の仕事をしている人が持っているレベルと大差はない。
話すスキルも、クライアントと会話しつつ要件定義などができるようであれば問題がないレベルである。
コーチングに関する知識も、決して理解していると言えるレベルではなく、あくまでも「知っている」程度であった。

それらを元に、毎日必死で考えて準備をし、実施して観察をし、結果に対して自分でのフィードバックを続けたことでできるようになったのだ。
そしてその中で、コーチングやグループワークに対する理解も進んだ。
こう考えていくと、きちんと学びさえすれば誰でもできるようになるはずのことである。
私ができるようになった理由が実はもう一つある。

それは「逃げるチャンスがなかった」ことである。
ろくに扱えないコーチングとグループワークにしか頼れなかったぐらい追い詰められており、それから逃げる方法がなかったのだ。
言い換えればやり続けることを強制されていたのだ。

実際の原因は「逃げられなかった」だが、これは「チャレンジし続けた」とも言える。
だから、私と同じことができるようになるためには、コーチングやグループワークを学び、伝えるべき知識を持ち、話すスキルを高めた上で、真摯なチャレンジを続ければよい、ということになる。

決して私にしかできないことではないし、長い時間をかけなければできないことでもない。
コーチングとグループワークの力を理解した後は、それをより磨くために時間を使ってきた。
理論を学び直し、実践的な訓練をし、よりよくできるように工夫をし続けてきた。
その中で、自分の経験や知識を体系化し、人に伝えられるようになってきた。
私のしていることを理解できない人は「長谷川だから」で片付けようとする。

それは可能性を捨てることで、とてももったいないことだな、と思いながら聞いている。
理解しようとしない人に伝えることは難しい。

私がしているのと同じようなことをするのは、たいへんかもしれないが、難しいことではない。
私が行っていることを表現するための方法論はすでにある。

それを他の多くの人に伝えていき、訓練の場を作っていきたい。
それができていないから、タイトルのような言葉を聞くことになってしまう。
「長谷川さんだからできる」

この言葉は、私の力不足を認識させる言葉でしかない。

Takanori

やりたいこと

私は教育に携わっている。
主として研修講師として活動し、ブログや書籍などによる情報発信、さまざまな機会を通じて人材育成に努め、また、そのための人材の育成に取り組んでいる。

そんな私の「やりたいこと」は、最終的に「人を育てる文化を日本の企業や学校や家庭に根付かせること」である。
そのためには、ただ生きるために言われたとおりの形で講師をするのではなく、自分の信じる形での研修を行い、成果を出すと共にその良さを知ってもらうことが重要である。

私の信じる形の研修や教育の形とは、自主性、考える力、コミュニケーションをベースとして自ら学ぶ形である。
これまで多くのシーンでその効果を見せようと努力してきた会社がある。
これまでもいろいろお世話になったし、一時期は「教えないで教える」を目標として掲げてくれていたこともあったので、なんとか私の知識や経験を役立ててもらおうと思って全力で取り組んできたつもりである。

だが、残念なことに、私のやりたいことや目的は伝わっていなかったようである。
おそらく効果は伝わっているのだが、ただ単に「長谷川だからできたこと」でしかなく、その理由やベースとなる考え方は伝わっていなかったのだろう。
私に旧来の研修の形を求めることは、私にとっても、求める方にとっても意味がない。
私にとっては、そのようなことを求められることは、足踏みにつながり、先のことを考えると時間がもったいないと考えざるを得ない。

このようなことを考えると、仕事がなくなる心配をしたくなるところであるが、実際には現時点でもいくつかオファーをいただいており、それらを断りつつ仁義を通してきた。
また、私の「やりたいこと」に直接の興味を持ってくれている会社も多い。
カリキュラムもお仕着せではなく、任せてくれると言ってくれるところもある。
講師育成という特殊な研修においても成果を上げられるスキルを持っていることもプラスに作用することだろう。

だから、幸いなことに、少なくとも新人研修の期間においては仕事を失う心配はあまりない。
旧来の「丁寧に教える教育」は近いうちに崩壊する。
参加型であり、チームによる学習であり、全て教えるのではなく教えないで考えさせる教育に必ずなる。

考えさせる教育を行うためにはそのような教育を行える人を育てなければならないが、どうしても時間はかかる。
グループワークを扱うためにも訓練が必要であるし、課題を考えるためにも訓練が必要である。
だらだら話さないようにするための訓練も必要であるし、観察する力、気付く力も身につけなければならない。
心理学についての素養も欲しいし、できればカウンセリングレベルの傾聴力も欲しいところである。
そして、教えるべき内容に関しての深いレベルの知識も当然必要となる。

時間はかかるがそれらの育成を行えば、教育の流れの転換が顕在化したときには非常な強みを発揮できるはずだ。
だが、旧来の教育の形にこだわっていたら、顕在化のタイミングでおいていかれるしかなくなる。
研修の品質を、企業の担当者が知っている研修を行ったかどうかで計っているようであっては、先の発展は見込めない。
担当者がそのような観点で満足するということは、教育に対する新しい価値を提供できていない、ということでしかない。

受講者の「成長できた」という気持ちが強い研修は良い研修である。
そしてそれは受講者の満足度で表されるものである。
企業の担当者が知っていることをなぞれたかどうかで計られるものではない。
今年は、私自身、大きな転換を図る年になるかもしれない。

自ら参加者を集め、会場の手配をし、協力者を集めて、理想の教育を形にしていくタイミングなのかもしれない。
IT系の新人研修をターゲットとすれば、現時点で想定できるリソースでは100人ほどが限界だろうが、新人研修を有効に活かすための受け入れ側の研修をセットで実施することも可能だろう。

しっかり考え、いろいろな方の力をお借りしながらこれから先を決めて行きたい。

Takanori

課題発見、解決

課題の発見、解決、という研修を行うことがある。
そもそも「課題の発見、解決」そのものが目的であることもあるし、コーチング研修の中に含めることもある。
管理職研修の中にも含まれるし、新人研修においても求められることもある。

つまり、課題発見、またその解決は、全てにおいて大切なことであり、それができずに困っている人が多いということだ。
なぜ困るのか、といえば、簡単に言えば「すぐ目に見える問題だけを取り扱おうとするから」ではないかと考えている。

実際には「すぐ目に見える問題」というのは本当の原因ではなく、本当の原因からいろいろあって表面に表れてきた「現象」であることがほとんどなのだ。
例えば、クライアントから「ちゃんと思った通りに動かない」などといったクレームが来たとする。
クレームが来たから、製品の不具合かと思って調べても完全に動作する。
よくよく聞いたら、購入時の担当者が言った言葉が間違っていて、クライアントはその言葉通りの動作をしない、というクレームをあげていた、なんてことが普通にある。
この場合、本当の問題は、担当者が製品を正確に理解していなかったことにあり、解決策は担当者への正しい教育ということになる。

これなどはまだ簡単なほうである。

こんな例もある。

「最近入ってきた新人がなかなか成長しない」という問題を抱えているIT系の会社の上司がいた。
グループワークで意見交換をしながら、質問によりさまざまなことを考え、深めていくと次のような結論が出た。

「新人のレベルに対する、受け入れ側の思い込みが本当の問題である。」

その部署では数年にわたって、学生時代に専門教育を受けてきた、または趣味によりプログラムを書いてきたことにより、技術的には経験者といってもよいレベルの新人が配属されてきた。
そのようなことが続く中で、その部署では「新人」のレベル感が醸成されていった。
ある年に、新人研修で初めてプログラミングを学んだ新人が配属された。
すでに醸成されていたレベル感から比べると、当然ではあるがその新人のレベルは低いことになる。

このような経緯で、配属された新人がなかなか使えるようにならない、という問題意識になってしまったのだ。

実際に話を聞けば、配属された新人は、自ら努力をし、なんの問題もない新入社員である。
それどころか、自発的な動きもできる優秀な人材であった。

だが、思い込みによりそれが問題になってしまったのだ。
他にも「部下から報告がない」という問題を分析していったら、報告を受け取れていなかった自分が問題だった、というようなことは、もう当たり前と言えるほど普通にあることである。
問題分析の際に「自分に問題があるかも」と思うと、意識的、無意識的にそれらの問題から目を背けてしまうため、いつまでたっても真の問題にたどり着けない。
同じようなことはどこにでもある。
クレームをもらったら、思い込みや自己保身を排除した上で、何が原因なのか徹底的に考え分析をしなければ、本当の問題にはたどり着けない。
本当の問題にたどり着けないまま対処をしようとしたら、それは「臭いものには蓋」的な対処になってしまい、本当の問題をより見えにくくしてしまうだけである。

一度見えなくなってしまった問題はなくなることはなく、他の形で現象となって出てくる。
課題発見、解決といえばロジカルシンキングなどがあげられることが多いが、実際には、思い込みや自己保身の排除、問題を発見しようとする意識付けのほうが効果を上げられることが多いように感じている。
ロジカルシンキング分野の分析方法はそれらがなければ、ただの形にしかならない。
問題解決は問題が適切に見つかれば考えられる。

だから「課題発見」を以下に効果的に学んでもらえるかというのは、これからの私のテーマの1つである。

Takanori

先生の先生の先生

今年も新入社員向けの講師育成が始まった。

昨年は、講師候補の方に対して私が直接担当させていただいたのだが、今年はまた違うパターンで、講師を教える講師の方に、教え方を教える、という複雑なことになっている。
言ってみれば、昨年は先生の先生で、今年は先生の先生の先生、といった感じだろうか。
直接担当させてもらったときには、30人を越える講師候補の方をほぼ1人対応していたので、一人一人に気を配りつつカリキュラムを考えて実施していくことは、とても気を使う業務であった。
また、カリキュラムについても、与えられた時間内で最大限の効果を得るために、ぎりぎりのタイミングを見計らいグループワークなどを設定し、モチベーションを引き出し学びの場の強化につながることは、すべて行うように努めていたことも、気を使うことにつながっていた。

ある意味、講師スキルをフルに発揮する必要のある、とてもやりがいのある研修であった。
今年は、直接私が研修をするのではなく、講師研修を行う講師を育てる、という間接的な関わりとなったことで、行うミッションは大きく変わった。
だが、していることは至極簡単である。
学んでもらわないとならないことを抽出、優先順位付けして整理し、それを学んでもらえる方法を考えてもらう、だけである。

学んでもらう方法はいろいろあるが、どのような方法を使えるかは、実際に現場に立つ講師の知識、経験、力量に大きく左右される。
残念ながら私が昨年使った方法を全て伝える時間はない。
なので、基本的には現在のスキルによって伝えてもらわなければならない。

ということで、講師育成の講師を育てるカリキュラムは以下の通りである。

1・伝えなければならないスキルを抽出する。
2・抽出したスキルの優先順位を決める。
3・どこまでが必須かを決める。
4・必須の項目について学んでもらう方法を、自分にできる範囲で考える。
5・スケジュール化する。

このように書くと、すべて「作業」に見えるかもしれないが、これこそが教えるための準備である。
このような「作業」を行わなければ何を伝えればよいのかさえ分からない状態になってしまうだろう。
たとえ自分のできることでも、きちんと言語化できるようにしておかなければ伝えることができないので、事前にきちんと「スキル」として認識し言語化できるようにしておくことは、伝えることの最初のステップである。

スキルの重要度を意識できれば、講師育成の現場で迷うことも、よけいなことを言うことも少なくなるだろう。

これらに加えて、できれば「質問のスキル」を身につけてもらいたいと考えている。

与えられた時間と環境の中でできることはこれぐらいであろう。

コメントスキルの訓練もしたいが、それを行う時間はなさそうである。

講師育成研修は難しい。

なぜなら育てなければならないスキルはさまざまなヒューマンスキルと実践的な技術スキルであり、教えた気になってすませることができないものだからだ。
育てるためには徹底した訓練が欠かせない。
さらに、ほとんどマイナスから始まるモチベーションをプラスにし、講師という仕事を「やりたい」と思ってもらわなければならない。

使える時間も十分ではない。

制約の中でできることを行い、可能な限りの成果を出したいと思っているが、今年の講師育成の枠組みの中ではできないことも出てくることだろう。

どこまでできるか。

今年もまた挑戦である。