Takanori

すぎるすぎる

言葉使いは時とともに変わっていくもので、変化を押しとどめることはできない。
同じ言葉を使っていても、意味が変わっていくこともある。

私はそのような言葉の変化はあるものだ、という認識はあるので、あまり気にしないようにしてはいるのだが、それでも、ときどき気になる言葉がある。

最近(?)気になる言葉の一つが「やばい」である。

なんでもかんでも「やばい」で表現してしまうようでは、日本語の表現力を発揮できない、というか言葉による表現をあきらめてしまっているように思える。
主として口語で使われるので、ノンバーバールの表現方法により細かいニュアンスはあるのだろうが、すごい、すばらしい、たいへんだ、かわいい、などなど、さまざまな言葉があるのだから、それをちゃんと使い分けようよ、と思ってしまう。

それともう一つ気になる言葉がある。
「すぎる」
である。

これは口語による表現ではなく、さまざまなメディアが文字ベースで競って使っている。

曰く「美人すぎる」「美味しすぎる」「有名すぎる」「劇的すぎる」「大好きすぎる」などである。

「すぎる」には元々「何々を越えて」という意味がある。

それを考えると次のような文章はこう考えるべきだろう。

「美しすぎる海上自衛官の歌姫」
http://matome.naver.jp/odai/2136775531560867901
「海上自衛官の歌手であれば、せいぜいこれぐらいの美しさだろうがその勝手な基準を越えて美しい」

「武蔵小杉で美味しすぎるおすすめラーメン10選」
https://www.travelbook.co.jp/topic/2017
「武蔵小杉のラーメンはこのぐらいのレベルだろうが、それを越えて美味しいラーメン10選」

香川「劇的すぎる」 ロスタイムに決勝ゴール
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1575745.html
これなどは何を基準にして「すぎる」のかよく分からない。

実際の所は、すでに「すぎる」が使われすぎていて「ちょっと」「とても」みたいな言葉が「すぎる」に置き換わってしまっているのだろう。
私の個人的な感覚では「すぎる」というのはとても強い言葉である。

「痛すぎる」ならば「むちゃくちゃ痛いんだろうな」と感じるし、「辛すぎる」と聞けば「地べたに這いつくばって起き上がれないような状態」を想像してしまう。

「とても美しい歌姫」「素晴らしく美味しいラーメン」「劇的な」でよいではないかと思ってしまう。
必要なら他の言葉を付ければよいが、すべてに「すぎる」が付くのは違和感がある。

インパクト感を表すのに便利なのでメディアなどで多用されているのだろうが、表現力がないんですよ、と宣伝しているように思うのは私だけであろうか。
仕事柄、言葉を選ぶ習慣が付いてしまっている。
この一言を発したら、相手がどういう気持ちになるだろうか、何を考えるだろうか、を常に意識している。

逆に、相手の言葉を一生懸命受け取る癖も付いてしまっている。
だから「すぎる」と付けられてたいしたことがないと「なにを大げさな」と思ったりするのだ。

こういうのはスルーすることができればいいのかもしれないが、それをしてしまっては自分が言葉を使うときにもぞんざいになったりしそうで怖いし、やはり細やかな表現力を持った日本語という言葉は大切にしたい。
こんなのは「日本語の単純化を心配しすぎる講師」とかになるのだろうか。

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